「都の辰巳に棲まいして・・・・」表紙
「夏は来ぬ」の巻
ー京都はんなり歌草子ー第四編
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  京都の各寺社は様々な行事が多い。特に、この時期は一年の締めくくりとして、「終い・・・」と歳の終わりに因む、祭礼が催される。終い観音や終い弘法、終い天神等で在る。丁度、此の終い何とかの時季に都に越して来たのも、何かの縁で在ろう。嬉しい事で在る。まあ、閑な爺さんと婆さんの事で時間はたっぷりと有り余っている。
  精々、仏さん参りや神さん詣でに精を出して、出来れば京の人々の生活や風習等所謂、京都学を学習しましょうや。
飄逸爺さんの京都はんなり歌草子ー
  斯くして筆者も、歴史に名を残す文人や風流人、隠遁人・・・を真似て都の東山を越えた醍醐石田の森で、折りに触れて感じる京の日々をエッセイ風に記し、下手な和歌を詠み込んで日記に残したいという衝動に駆られて此の日記エッセイを書き始めた。
  
此の日記エッセイを瓢逸白文の京都はんなり歌草子」と題してみた。「飄逸」とは、"世情を気にせず、唯我独尊的に飄々と過ごす”という意味で、落ち零れのスケベ爺、筆者を称するにぴったりの称号?で在ろう。「屁放きエロ先生」は子供達から頂戴した筆者に対する囃子詞である。有り難く頂いて号名として採用させて頂いた。先ず、歌草紙第一編は「そや、京都に引っ越そう」とした。書き上がった歌草子を読み返しては其の日、其の日を振り返り朝夕、歌を詠み直しては書き直し、詠み返しては元に戻すという似非風流人が出来上がりつつ在る。此のDiaryEsseyの主題名は「都の辰巳に棲まいして・・・」とした。   12月朔日

  「我が庵は 都の辰巳 しかぞ棲む 世をうし山と 人はいふなり」  (古今和歌集 喜撰法師)

  昨年の初冬、都人の隠棲の地として憧れの地で在った宇治に近い、醍醐に移ってきました。喜寿を迎えた私と老妻の二人して静かに、京の季節の移ろいに包まれて人生の黄昏を愉しもうと思っております。・・・・。(平成丁酉元旦)  
2017年年賀状より

  京都へ移転を決意したのは平成28年の夏で在る。京都は半世紀を超えた昔、腹を擦りながら(落第すれすれの意)卒業させて頂いた大学が在って筆者には因縁浅からぬ地で在る。また、概ねの女性が憧れる様に、女房殿の京に対する思い入れも強い。
  斯くして、家移る覚悟を賀状に刷って住み慣れた尾張の国知多の郡吉川鄕吉田の里から都の辰巳、石田の森に移り来て都人に為ろうとする愉しみと苦労が始まるので在る。筆者は満年齢75歳、数え年齢77歳の喜寿を迎える。「ほんまに俺はオッチョコチョイの考え無しや!ええ年をして今更、引っ越しとは・・・」。しかしもう晩い。今は只、「はんなり京都」に浸る事にしよう。其処で一首。
    「喜寿迎ふ 都の辰巳へ 家移り」は 賀状の詞 飛ぶ鶴添へて
    僧喜撰の 歌に擬へ 隠居する 詞を彼れ是れ PCに迷い打つ

「コロナヴィールス覆下の都」
ー俄都人の愚痴日記ー
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 鄙の郷村を発って都に移り棲む。もう見る事の無き??故郷)
  穏やかな小春日和に見送られて知多郡吉田村の鄙里を出発。都の辰巳の方角に東山を越え、来栖野を過ぎた石田の森の南、醍醐石田団地に引っ越して来た。此の2DKの狭い新居が、終の住まいとして穏やかな人生の黄昏を私に提供してくれるだろうか?
  夕方、大学時代の親友俊ちゃんから電話あり。奥さん連れで都の紅葉狩りとか??「何処も大変な人出だった」と愚痴を言う。最近は外人特に、着物姿の中国語が京の名所各地の公用語として幅を利かせている。その内に京都の挨拶は「ニー、ハオさんどすなあ」てな事に・・・為らないとも限らない。此の懸念が年末の恒例行事で現実のものと為るが、其れは後ほどね!
  松岡電気の菱田さんのお陰でテレビや炬燵、トイレ、流し台が設置され、京の生活が始まった。日本引越センターの若者等の労力で段ボールに詰めた書籍などの荷物が運び入れられる。当分、段ボールに囲われた生活。物品の整理が始まる。何もかも捨てて来た女房と違って、此の書籍の山をどうしようか????「判っているけどまあ、その内にね!」
    2016年11月29日(火・晴)
     もう帰り 来る事の無き 故郷か 都へ家移る 車窓の田畑
  
「都の紅葉を彷徨く」の巻
ー美女尼御前と白拍子三人ー
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 第一巻、「天龍寺の朝陽と落柿舎」
    ー有智子内親王の詩一首ー
 
 第二巻、「常寂光寺と祇王寺・・・・・」
    ー西行の庵跡と尼御前ー

 第三巻、「真如堂参拝と永観堂」
    ーそっぽ向いた阿弥陀様と小町のお寺ー

 第四巻、「修学院離宮と赤山禅院」
    ー寺も離宮も落葉して早や師走の風ー

京の師走の風物行事「東西役者の顔見世興行」鑑賞

   「顔見世」を久々に鑑賞した。大阪に棲んでた独身時代、妹や親父等と京阪特急車内で「松録の弁慶が好かった。否、梅幸の義経は何時見ても好いよ。富樫は誰々が・・・」といった具合で、役者を批評??しながら帰ったもので在る。
  例年の「顔見世興行」は南座で催されるが、今年は改装工事の為、先斗町歌舞練場に場所を移して公演される。先斗町歌舞練場は観客席500席と小振りで日に、、三度の公演で在る。
  「男のす為る日記といふものを、女もしてみむとて為るなり・・・」と紀貫之は、都に帰還する船に乗り、吉田兼好は「徒然なるままに、日ぐらし硯にむかいて・・・」と都に暮らす日々を記した。「往く川の流れは絶えずして而も、元の水に非ず・・・」と鴨長明は庵を結び、「日月は百代の過客にして行き交う年もまた、旅人なり・・・」と芭蕉は陸奥へ旅立った。  喜撰法師は「我が庵は 都の辰巳 しかぞ棲む・・・」と詠んで、彼の隠遁をあれこれと詮索噂をする人々をさらりと躱した。後白河上皇は「遊びをせむとて 生まれけむ・・・」と自身の遊び心を讃えた。
  斯くの如く古の文人達は、或る者は旅に出、或る者は都の行事と日々の暮らしを書き残し。或る者は庵を結んだ・・・。

  此の様に多くの文人達は,心に浮かんだ想いを或る者は、日々の記録に残し或る者は、ESSEYとして後世に伝え或る者は、
紀行文として旅日記を文学界の教科書として我々に与えてくれた。更に、或る者は歌に詠んで人々の浅慮な詮索を嘲笑い、自身の遊び心を賛美した。
「京都はんなり歌草子」ー都の歳時記ー
”京のおりふし”(orifusi5-2。htmlへリンク


  巻一、「本願寺花灯路と島原花街
    
ー御簾の裡の仄かな灯りー

  巻二、「石田の杜の万葉歌碑」
    
ー平城の都から東の国への街道ー

  巻三、「大仏さん万灯会と五山の送り火」
    
ーあはれ今年の夏も去ぬめりー

  巻四、「迎賓館と仙洞御所拝観紀」
    
ー京の都のおもてなしー
 
「折節のお話も早や一年」の巻
ーしかし、未だたったの一年ー
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 巻一、「都の辰巳に早や一年」の巻

 巻二,「除夜の鐘」そして、歳が明けた
「あ~!京都に棲んでたんだ」(四ページ)
ー京都はんなり歌草子ー第二編
(diaryessey.html2-2)へのリンク
「そうだ!京都に棲もう」(三ページ)
ー京都はんなり歌草子ー
第一編
(diaryessey.html)へのリンク
  歌舞伎鑑賞には此ぐらいの小振りな劇場が好い。役者が表す表情や息づかいが直に、伝わる。女房に雀右衛門の「京鹿の子娘道成寺」を見せて遣ったが、プロマイドを見て後悔をした。仁左衛門の「吉田屋忠兵衛」の方が好かったかなあ・・・・。
  夜、9時前に三条大橋を歩いている事が女房に感動を与えた様で在る。名古屋育ちの女房には此の時間の京都散歩が想像出来なかったの在ろう。この日の彼女の日記には・・・・・・・・
「夜、8;30頃(顔見世が終わって)三条大橋を歩いている。不思議で、想像も出来なかった事。大いに感激。”あー、京都に移り住んだのだ!!!”」            2016年12月3日  
三井寺秘仏、如意輪観音半跏像
   三井寺如意輪観音菩薩拝観
  京都に来た早々では在るが、「石山寺のご本尊如意輪観音様が33年に一度という開扉でお出まし為さって居られる」と聞けば、矢も立てず溜まらず、出掛けた。
  観音様を一目見た女房はいたく、感動した様子で何度も何度も手を合わせ、結縁の紐を額に押し 当てている。斯くも幾度も拝礼して貰うと観音様も さぞかし、片腹痛かろう。
 女房殿の此の夜の日記には「素晴らしい観音様、心が洗われ、穏やかに為りました」と、感激振りが書かれている。彼女の為にも京都へ来て好かったのかも知れない。                師走朔日(木、曇)
      紫式部の 光るの君と 秘めし逢いを 想はす寺の 観音詣で
平成丁酉年初挨拶賀片(部分)
「SPRING HAS COME」の巻
  (バネを持って来い?????)
ー京都はんなり歌草子ー第三編
(diaryessey3-1.html) へのリンク