「あ~!京都に移り棲んだんだ」巻二
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  息子から貰ったお年玉

  大丸でダウン症書家の金澤翔子と絵師いかわあきこの共同展覧会拝見。特に金澤翔子の墨書は昔、見た洋画家中川一政の墨字を想い出させる。清水公照師も「字が中川一政に似て来た」と一政の書を褒めていた。今、金澤翔子の墨字を見たら師は何と言うだろうか?と師を懐かしむ。女房殿はいかわあきこの孔雀の画が甚だ、気に入った様である。
  五階で冬用帽子を買って貰い、久々に百貨店食堂で昼食を食った。私は揚げ麺つまり、長崎の皿うどん、女房はミックスサンドを喰った。   
平成29年1月13日(金、曇)
     京四条 デパートに買ひし 冬帽子 息子の年玉 被りて悠々
  
  恒例の京都女子駅伝が行われた。第三区か第四区辺りは吹雪の中を女子選手等が懸命に走る。テレビのカメラに雪が降りかかって見難い。雪を頭に乗せて選手は走る。凄い駅伝、女性の戦いが繰り広げられる。結局、2秒差で京都チームが追い縋る岡山チームを振り切って優勝した。京都チームの最終ランナーの健闘も然りながら、2秒差まで追い上げた岡山チームの奮闘は後世に語り継がれなければ為らないと思う。 勝利の女神様も随分と、迷われた様で在る。                    

    追い上げも 二秒足らざる 悔しさも 悦びも戦い 終ふれば笑顔 
    二秒差の デッドヒート 追ふ逃ぐる 勝者も敗者も 雪の駅伝

  女房の友人の五代子さんの電話では、暖かい知多地方の東浦でも15センチ積もったらしい。息子は今日からスキーに行くとの事で在る。                                             平成29年1月15日(日、雪)
 「建仁寺参拝と戎っさん」

  十日恵比寿神社と建仁寺参拝。建仁寺では、或る末寺の本山詣での団体?に混じって本坊各堂を拝観させて頂き、案内の教学僧から面白いお話をお聴きかせ頂いた。
  小泉淳作氏筆の法堂の双龍の天井画は平成14年、建仁寺創建800年を記念して掲上された。「建仁寺は二流寺院だ。法堂の天井画は二龍で在る」という笑い話が在ると云う。有名な俵屋宗達の風神雷神図の真筆は現在、国立博物館に保管され、一年間に90日間だけ展示され、秋の国宝展では展示される予定とか。
  方丈前の石庭は昭和15年頃、庭師加藤熊吉によって作られた枯山水「大雄苑」である。ニ筋の幅広線が引かれ、人々に様々な想像を要求する。我が女房殿は「川の流れを表す」と言い、筆者は「雲海或いは、手前の線は川で奥は雲海の表現」と想像した。人それぞれ、砂利石庭の意思を想像するのは楽しい。此も空というもので在ろうか??石庭を創めた夢窓疎石は天才で在る。
  方丈脇を下りると茶室清涼軒に至る。秀吉主催の北野大茶会で真如堂東陽坊長盛が担当した副席の草庵式二帖台目の茶室が清涼軒と並んで置かれている。茶室を建仁寺垣と呼ばれる竹垣が囲っている。小書院の南にある「◯△囗乃庭」と「四面正面」の中庭、潮音庭は北山安夫の作庭、平成の作で在る。此の様に京都五山第三位の建仁寺には現代の芸術家の作品が、歴史的な芸術作品と並んで展示される。海北友松筆の龍の壁画や山水等の襖絵は京都国立博物館に所管され、キャノン社の写真影像が其れ等に代わって展示されている。
   或るは川 或るは雲海 人は言う 大雄苑砂利に 引かれし二帯 
   栄西の 宋への二渡海 語るとふ 大雄苑の砂利 茅葺き廊下に
 
  帰路、十日戎神社参拝。祇園の舞妓さん二人が縁起の笹を売る。裏門の板を三度叩いて、「お詣りさせて頂きました。有り難う御座いました」と恵比寿様に参拝の報告するのが習わしで在るとか。板戸を三叩をして、宮川町の遊郭街を通って帰る。
   舞妓さんも 笹売り奉仕 京戎 三叩裏門を 遊里に出づる  
   三叩頭 裏門出れば 宮川町 花街恵比寿の 鴨川に沿ふ
            平成29年1月11日(水、晴)
                                                         
「あ~!京都に移り棲んだんだ」巻一
雪の駅伝”デッドヒート”

  朝起きると外は真っ白の世界。子供広場では女の子等が雪だるまを作っている。伏見は京都でも暖かい処で、積雪は5センチくらいで在ろうか?後のメールでは、仁和寺近くの足立君宅は20センチだったとか。右京区では50センチの積雪とテレビは報道し、貴船神社や鞍馬寺は雪の為、拝観中止に為ったようで在る。 
ー瓢逸白文の京都はんなり歌草紙ー第二編
都の辰巳に棲まいして・・・・
  「瓢逸白文の京都はんなり歌草子」第二編の表題、「あ~!京都に棲んだんだ」は年末の京都顔見世歌舞伎興行で中村雀右衛門の「京鹿の子娘道成寺」を見た帰りの三条大橋で京の夜景を見た女房の感嘆で在る。知多育ちの女房は勿論、関西言葉「移り棲んでたんや」は使わない。其の悦びを頂いて「移り棲んでたんだ」を表題に貰った。
  京都の街は多くの女性にとって憧れの的で在るが、我が女房殿にとっても勿論、例外ではない。テレビで放映される俳優さん方が紹介する京都の名所や料理屋さん等を眺めては溜め息を付いている。其の憧れの中に突然、自分が居た。三条大橋に佇んで鴨川に燦めく京都の灯を眺めている自分の居る場に気付かされた時の感動が、「あ~!京都に移り棲んでたのだ」という文言で在った。
  師走の或る日の彼女の日記を覗き込んで此の句を見付けて、HPの表題にさせて頂いたという訳で在る。
  「あ~!京都に棲んだんだ」には京都に引っ越した翌年の年初の筆者夫婦の京都彷徨いと感動を、酔夢譚として描いて見た。

「半雨半晴 柳は緑花紅」
  添付画は半世紀以上も昔、筆者が東大寺大仏殿に墨字を習いに行っていた頃に、清水公照師から頂いた色紙の一枚である。「お前、京都に棲んだからと言って有頂天に為るな!」と一喝を頂いたつもり、自分への戒めの為に此処に掲げた。
  「半雨半晴」とは「好い事が在れば直ぐ、悪い事が起こる。悪い事が在れば間もなく、好い事が起こる。備え有れば憂い無し」という師の教えで在ろうか??「柳緑花紅」は「色々起こるが、時が来れば木々は芽吹くし、花は彩る。小さい事にクヨクヨするな」と言う激励であろう。
  石清水八幡宮参拝

  石清水八幡宮参拝。息子の厄払い祈祷と厄除け神矢を頂き、八幡様にお願いをして息子の家に直接、郵送の手配をする。息子も数え年42歳の本厄に為ったんだよ。へー??昔、ジュースが欲しいと泣いていたあの子がねえ。俺も爺さんに為る筈だよ。
  ケーブルカーが建設されて60年とか??そう言えば、中学入学当時、親父に連れられて一度、詣でたことが在った。ケーブルカーが建設される直前の事で、厳しい山登りをし終えて見た本殿の朱赤が当時も、今日も森中に浮かんでいる。徒然草に「仁和寺の僧が八幡社を詣でたが、山頂の本殿に詣でず、八幡神宮山麓の社寺に詣って納得して帰り来て、”念願の石清水八幡宮に参ってきました。しかし、参拝人達が山へ登って行ったが、山に何が在るんですか??”と人に尋ねた」という嘲笑い話が載せられる。
  参拝と息子の代参を終えてホッと、一口気。展望台に佇つと京都の街が一望出来る。「家はどの方向??彼処に京都タワー、その前に東寺の塔、比叡山と比良山・・・」素晴らしい展望で在る。春霞か?少し、靄う街並みが更に、奥ゆかしく見える。
 「彼の向こうの山が天王山、山裾が山崎で木津宇治桂の三つの川が合流して霧が立つ。此の霧がウイスキーの熟成を進める」という昔のテレビコマーシャルを女房に話す。しかし、「この話は嘘でサントリー社、当時の壽屋を興した鳥井信二郎は大の秀吉好きで、秀吉が山崎の戦いに勝って天下を獲る礎にした。湧き水を調べたら質が悪くなかったので此処にウイスキー工場を建てたんだよ」と物知りを披露否、昔親父から聴かされた話を自慢した。温かい冬日が射す一日だった。         
平成29年正月27日

     ケーブルカーに 往時を想ひぬ 石清水 八幡宮の山路 登りし中学の頃
     山裾の 社寺のみ拝して 去にし僧は 徒然の一節 石清水に詣でぬ
     四十二歳 息子に代わりて 厄除けの 御神矢頂く 石清水の宮  
     京の街 遙かに一望 八幡宮 参拝終へ来ぬ 展望場の冬日