天龍寺は、南北朝廷対立の中、逝去した南朝後醍醐上皇の菩提を弔う為、前年征夷大将軍に就いた足利尊氏が夢窓疎石の勧めで創建した京都五山の第一位に称される。其の大寺院の方丈に面する池泉回遊式庭園、「曹源池」は礎石の設計で在る。自然の眺望と景観を活かしつつ、石組などによって禅の本質の境地を表現されていると云う。  早朝拝観は7;30から庭園の入口が開かれる。テレビでお馴染みの方丈裏の庭園に進み入って置かれた長いすに座って拝観する。広い庭園には疎らでは在るが早くも、爺さん婆さん達、若者や外人達も朝日に浮かぶ夢窓疎石が設計した池泉回遊式庭園、「曹源池」の紅葉風景をスマートホンや持ち歩きPCで撮っている。朝陽が雲の合間から射し込んできた。庭池の向こう側に配された数本の楓が緑の木々を背景に浮かび上がる。背景の木々の上には嵐山が薄く朝霞に聳える。「凄いでしょう」と女房。「うーん」と声なき筆者。「朝早く、来た甲斐があったなあ」。
  曹源池に 朝陽射し出で 朱紅葉 緑為す木々 石岩に映ゆ
  池廻る 小径に降り敷く もみじ葉に 覆わる苔も 朝陽射し居て
  天龍寺 早朝拝観 紅葉する 葉々に池面に 朝陽の映ゆる

  曹源池を廻る紅葉の小径を散歩し終えて庫裡から進み入って方丈を拝観。開け放たれた方丈は奥に見える曹源池の眺めを浮き出させて大寺院の風格宜しく愈、雄大で在る。方丈の脇に在る書院には有名な禅僧関牧翁師の真筆の額と軸が掲げられている。「天龍沙門」、「牧翁」の落款が読める。故清水公照師の雄大な元気溌剌とした字に馴染んでいる筆者には、巧いとは感じさせられないが仲々、味のある字に見えた。因みに関牧翁師は公照師の兄弟子で在ったと聞いた事が在る。曹源池を斜め脇から眺める書院も開け放たれて天龍寺の雄大さが愈、拝観者の心を開く様である。
  斯くして天龍寺の拝観を終えて嵯峨野の紅葉狩りへ、小倉山山裾に連なる寺院群を廻る散歩に出発した。
  「小倉山 峰のもみじ葉心あらば 今ひとたびの 御幸待たなむ」と貞心公に詠ませた紅葉の名所、紅葉の枕詞とされる小倉山の山裾に連なる寺々は今正に、紅葉の嵯峨野と言われる秋の真盛り、紅朱黄色に染まる木々が常緑樹の緑に映えて嵯峨野の紅葉の見頃である。鎌倉初頭の大歌人藤原定家が此処、小倉山の山裾の時雨亭で百人一首を編纂したと伝わる。
  先ずは、女房が嵯峨野彷徨きの一番の楽しみにしている「常寂光寺」に向かおうと天龍寺を出て北上、暫く歩いて「常寂光寺、祇王寺は・・・」という看板を左折すると「竹林の小径」つまり、嵯峨野の名所の竹林を抜ける小径に通じる。前方を行く女子高生に声を掛ける。「修学旅行ですか?」。「はい、そうです」。「何処の高校ですか?」。「宮城県でーす」。「おっ、一目惚れだね。女子高生に一目惚れ・・・と言ったりして」。「巧い」・・・、女子高の修学旅行生らと会話を交わして楽しみ乍ら、嵯峨野に向かって歩む。
  暫く行くとトロッコ列車の踏切を渡る。松本伊代さん等が入り込んだ写真をインターネットに発表した嵯峨野トロッコ鉄道の踏切で在る。「此の真っ直ぐな線路の風景は、松本伊代ちゃん為らずとも入り込んで写真を撮りたくなるよなあ」。「馬鹿なこと言わないで」と叱られちゃった。
  更に竹林小径を進むと、ちょっとした竹林の雰囲気を楽しむスペースが在って入口が開かれている。「京都府警の科捜研の沢口靖子さんが実験着姿で検査に来るんだよ」。「何を言ってるの?沢口靖子さん!沢口靖子さんと・・好い加減にしなさい」また、叱られた。
  稲穂が刈られた遊休田んぼの向こう側に見える江戸期の俳人向井去来の庵「落柿舎」を横目に見ながら「後で来よう」と常寂光寺の参拝小径を上る。小さな山門に至る小径、門を潜って登る石段は紅葉に包まれ特に、山門を潜って登る石段から振り返って見る山門を通して眺める木々の真っ赤に色付いた様は紅葉狩りの圧巻と言うべきで在る。院内には時雨亭跡を示す石碑が在って定家の小倉百人一首編纂した場所で在ると伝わる。
    
顔も身も 紅葉に染まりし 心地して 常寂光寺の 石段の返り見

  常寂光寺を出ると「大河内山荘へ15分」の看板を見付ける。看板に誘われて「ついでに見ようか」と木々の下径を行く。御髪神社が池否、淵の向こうに朱い鳥居と社を見せる。「昔は、女性が髪が美しく為る様にと拝んだらしいが、最近は頭の薄くなった小父さん方が詣でるらしいよ」と京都新聞の受け売り知識を披露しながら尚も道なりに進む。 
「屁放き爺さん折節のお噺」輯第五篇
  振り返りなければ気が付かない登り石段が在る。其の石段を上りきると昭和初期の無声映画、活動大写真時代の名優大河内伝次郎が作庭した山路回遊式の庭園で在る。「大河内伝次郎と云えば丹下左膳だよ・・・」はテレビの受け売りで在る。女房の言うには「百年名家というテレビ番組で眺めの好い建屋が紹介された・・・・」らしいが、その様な場所は無かった。「或いは、テレビ撮影や来賓の為の特別な建屋じゃないか?」・・・。庭園の廻遊、登り降りを終えて御茶を頂く。ホッと一口気。「未だ嵯峨野の入口や」・・・。
  見残した「落柿舎」に戻って来た。俳句の投稿箱が置かれている。一句「小倉山 藁葺き屋根に 散る紅葉」。我ながら下手な俳句??に為って終った。作り直した一句「身も顔も 紅葉に染まりて 嵯峨の径」。此れももう一つの出来????

  落柿舎の裏には、平安初期の嵯峨天皇の皇女有智子内親王の御陵が在る。内親王は最初の賀茂の宮の斎院と為って其の豊かな漢詩の素養は、大学の守近江淡海や唐の朝廷でも其の学識を高く評価された石上宅嗣らと共に讃えられ、漢詩集「経国集」にも十首載せられる。賀茂の祭(葵祭)は彼女の齋院を以て始まったとされる。彼女の七言律詩を下記する。
    寂寂幽莊山樹裏 仙輿一降一池塘 
    棲林孤鳥識春澤 隠澗寒花見日光 
    泉聲近報初雷響 山色高晴暮雨行
    從此更知恩顧渥 生涯何以答穹蒼

「都の辰巳に棲まいして」
「都の紅葉を彷徨い歩く」巻一
「都の紅葉を彷徨い歩く」巻二へ続く
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天龍寺の早朝参拝

  嵯峨野に紅葉狩りに早朝、6;30に家を発つ。天竜寺の朝日に浮かび上がる庭園の紅葉拝観が第一の目的で、天気と女房の座骨神経痛が嵯峨野彷徨きを許すなら、嵯峨野の紅葉狩りを楽しむか??と薄暗い中をやって来たので在る。
  筆者に取って天竜寺は初回の拝観では在るが、「墨字の師清水公照師が雲水修行をした寺と在っては拝観をした事が無い」等とは言っておれない。地下鉄東西線と嵐電を乗り継いで一時間弱で嵐山に着いた。「さて、歩くぞ!」と意気込む間もなく天竜寺の門前に立っていた。三門から寺院拝観の玄関で在る庫裡の入口つまり、勝手口に到る石舗道は厳めしく、襟を正す臨済禅天竜寺派の大本山という威厳に満ち溢れている。我が墨書の師清水公照も此の道を、当時の管長関清拙の門を叩く為に網代笠を被り、黒(こく)衣(え)(直(じき)綴(とつ))、手甲脚絆、草鞋ばきの姿で頭陀袋を首にかけて東大寺から遣って来て此の道を通ったので在ろうか???師が好く話された事、「雪の朝、清拙老師の毎朝の散歩に給する為に下駄を置いた事を兄弟子から、"こんな天気の朝は、気を利かして下駄を出すのを忘れるんだよ・・・”と窘められた。気を利かすというのは斯う言う事だと悟った」と講演等、機会在る毎に喋られていた。一時流行した「おもてなし」の奥義も、斯う言った処に在るんじゃ無いだろうかと石道を歩いて清水公照師を想い出した。

落柿舎と有規子内親王
  詩意は、{静寂でうっそうとする樹木の陰の山荘に、天皇の神輿が池のほとりに御臨幸為された。林に棲む弧鳥(私)も春の恵み(天皇の御臨幸)を識り、ひそと咲く寒花(私)も日の光を仰ぎ見る。泉の音、初雷の響きが春の近い事を報せ、高く晴れ渡たる山の気配に、暮れの雨も已み、此れ等の事共によっても更に、御恩顧の篤さをを知り、生涯をかけて如何にして、大空の如く高く深い御恩沢に、私はお答えすれば好いのでしょうか}。

  有智内親王の墓所に隣り合う墓園には、去来が撰んだ「百句一首」の石碑が列ぶ。また、付近には西行の井戸跡も在って、嵯峨野小倉山裾が如何に、短歌や俳句、詩に因んだ土地で在る事を知るので在る。

                                                            
「嵐山と嵯峨野を歩く」巻一