今日で京都に移り来てから一年経つ。昨年11月29日、愛知県知多郡の大府の女房の実家の田舎家での生活を畳んで全てを捨てて此処、京都市伏見区のUR団地の2DKの小さな棲まいに越して来た。「そうだ。京都に行こう・・・」から「そや!京都に引っ越そう」に為り、「そうか!京都に引っ越してたんや」に為った。一年経って「都の辰巳に棲まいして・・・」と言えるかな??「否、未だ未だやで!」と我が京棲まいを認められる迄には程遠かろう。

  我々夫婦の足跡を辿ると・・・。始まりは大府の神池末の3Kの借家で在る。大家さんの紹介で見合いして知り合った女房と結婚し、其処で子供が二人生まれ、各務原の鵜沼に家を建てて犬山城を見下ろし、福岡市の春日原の借り上げ社宅に転勤転居更に、早良区の4LDKのマンションを購入した。
  20年勤めた会社を退社したのを契機に昭和61年11月転職によって四日市の塩浜の転職先の会社が所有する借家に移って半年、桑名の大山田団地松の木のUR五階に転居、同じ大山田団地の筒尾に建売住宅を購入して生涯を終えるつもりで居た。しかし筆者はよくよく、落ち着けない様に出来ている様で在る。
  平成14年から女房は、実家に住み込んで両親の世話をしていたが岳父の死を以て、大府の女房の実家の嗣を取った義弟の頼みを受けて、彼のものと為った実家の54坪の田舎家と敷地120坪を守る女房と共に、平成24年に享年102歳で逝った女房の母親の世話をする為、桑名の建売を売り払って女房の元に移り、知多の丘に10坪前後の畑地を借りて晴耕雨読の隠遁生活を始めて、知多の丘に生涯を終える覚悟を決めた。
  処がどっこい、そうは上手く筆者や弟、女房が考えて居る様には進まなかった。実家の向居に小さな中古車センターを営む女房の兄貴の妨害が始まる。弟が実家の後を継いだ事、其れ以上に我々夫婦が実家に棲まう事を嫌った事が原因で在る。結局、彼の出入りのヤクザの介入を招いて裁判沙汰の騒ぎを起こし、我々夫婦が実家に棲む事に妨害に到り、後味の悪い兄弟の争いと為った。
  後に、私と妹の仲の好さ、喧嘩もするが根底の兄妹関係を見失わない私等二人を見た女房は、「兄弟関係や一族関係の温かさを知る事に為った」と語った。「お前も貴志の一員だよ」と言う私に感激し、妹と仲良く喋り合う彼女の姿にやっと、一家の結び付きの深さを知った事が感じさせられる。
  此の兄弟の争いに嫌気を覚え、京都に転居をする。昨年の晩秋11/29の事で在った。女房は此の引っ越しを寧ろ、喜んだ。テレビで毎日の如く、放映される京都風景や寺社、人々の様子に憧れた事や京都は女性が憧れる地で在った事等々が其の理由で在ろう。
  私にとっても京都は学生時代を過ごした事も在って、京都棲まいを嫌がる理由も無い。また、家屋敷や故郷という観念は更々、持たない性格によっても、京都転居は喜ぶべき事実で在った。我が父母の眠る墓が大阪の堺に在る。妹夫婦も堺に居る。やはり私は関西人特に、大阪と京都が故郷と言えるかも知れない。

  今私は、母校を舞台に催されるSKY大学と名付けられた生涯学習講座受講や先生、友人達との交流、女房の京都観光の案内を楽しみ、妹を京都に誘う等々、京都に引っ越して来た事を喜んで老いの徒然を日暮らし、PCに向かって、HP「京都はんなり歌草子」を立ち上げて下手な歌を詠み、日記らしきものを打ち込む日々を送っている。
  「まあ、人生色々在らあな!」が我が生涯訓で在ろうか。               
平成29年11月29日(木、曇後雨)

   雪溶けて 花散り夏往き 秋紅葉 一年経ちたり 我が京の宿り
   冬終わり 春往き夏去り 早や晩秋 一年経ちたり 京に移り来て
   紅葉する 街樹を見おろす 七楼の 陽台に偲びぬ 我が京の一年
   人生は 色々在ら~な 終の宿 京の紅葉に あれこれ想ほゆ
 
  京都に棲み着いて「五世代経なければ、京都人とは認められない」と聴かされた記憶がある。「家は新しいんどっせ。足ったの百年どす~」と婆さん御料さんがテレビで話すのを見た事も覚えている。京都は「千年の古都」で在るという歌を京都出身の歌手が歌っていた。可成り、昔の話で在るがさすが、都の面影が今尚、守られている事を知らされた。此等の話は、京都に引っ越して来て間もない頃で在ったと思う。
  他の街だと、「早いものですなあ。もう一年経ったんですか・・・・」だろう。えらい違いで在る。そんな京都の片隅に、爺さんと婆さんが引っ越して来た。色々、引っ越して来た理由を捜すが、本人等にも判らない。「ふとした間違い」としか言いようが無い。「まあ人生、”色々、有あら~な”とでも答えておきましょう
」と開き直っている。
  冬終わり 春過ぎ夏往き 早や晩秋 一年経ちたり    京に越し来て 

  或る友人に言われた。「俺より、お前は京都人やから」と。何かを訊ねた時で在った。筆者は、京都の事は彼に尋ねる事にしている。今は千葉県にマンションを買って暮らしているが彼は。「鴨川の水の産湯に浸ったんだから京都人だ」と言い得るのではないか??否々、彼のご両親のみならず、ご先祖も京都生まれの京都育ちで在ったろう。「生粋の京都人で在る」と云える。「京都人が吾妻の国に下った」と言うべきで在ろう。まあ、詰まらない事を考えずに都見物に出掛けましょう。
「都の辰巳に棲まいして、早や一年・・・・。
  愈12月、師走が始まった。京都の師走は様々な行事で彩られる。歌舞伎の顔見世興行や芸妓や舞妓さんの事始め、「終い弘法」や「終い天神」、「終い観音」等々、お粥やカボチャ煮、大根焚き・・・が参拝者に振る舞われる。
  そう言えば去年、始めてお詣りした千本釈迦堂の大根焚きに驚かされた。一杯千円の「引換券を買え」と言う。其の券を買って長い行列に並んで、「大根三切れに油揚げ」の入ったお椀を貰って喰うので在る。「お釈迦様も随分とあこぎな商売をしなさるなあ」と愚痴を言いながら大根と油揚げを食わせて頂いた。その点、カボチャ煮の矢田寺や終い観音の一言寺さんは好かった。置かれた三宝に「お志」として千円札を一枚置いてきたが、気持ち好くお志を出せる。
  人間、強制されると反発を感じるもので、何も言われない或いは、「お志は貴方にお任せします」と言われると気持ち好くお志も弾むものらしい。


  此の四日間、来年の年賀状作成と宛名書きに終始。来年の年賀状の附画は「鶴の番いつまり、"踊る雄に対して静かに餌を啄む雌”」を画いてみた。仲々巧く書けたと自画自賛している。「雪溶けて 花散り夏去き 秋紅葉 一年経ちたり 我が京の宿り」と詠んだ下手な自作の和歌を讃にして太字斜体にした。「おっ、仲々好えやんけ。巧く画けたで」と、常に我が画や歌にケチを付ける女房に自慢をした。

  「
京都に引っ越し来て二度目の新年を迎えました。此の一年、都の四季を巡らせて頂きましたが一年では京の街は歩き尽くせません。今年も都の春夏秋冬を彷徨っては下手な歌を詠むつもりで居ります。 平成戊戌(三十年)元旦
しかし未だ、たったの一年や!
「おりふしのお話」も一年
「まあ、人生色々、在ら~な」
鶴の舞
「除夜の鐘そして歳が明けた」
(orifusi7-1).html へのリンク
  年賀状に讃する画は此処数年は「鶴」にしている。初年は「ヒマラヤ山脈を越える鶴二羽」、「親子の鶴三羽」、清水公照師の「群鶴」の模倣、俵屋宗達「鶴の番い」を真似る。昨年は「朝陽に飛ぶ鶴」、今年は「雪中に鶴舞う」と六年、六種類の「鶴」を画いた。年々、画が巧く為る様に思うのは自画自賛で在ろうか。

  11/30に文章を考え、歌を詠み直して12/1、墨を摺って「雪に舞う雄雌の鶴」を書き、12/4のお昼には宛先まで書き終えた。結局110枚の賀状を完成させた。12/4書き上げという時期も、5日間の構想開始から書き終える迄の時間も今年ほど、早かった事は曾て無かった。其程、閑という事で在る。郵便局の12/15の賀状受け付け開始日に爺さん婆さんが年賀状を出す様子がテレビに映されるが、其の爺さん婆さんの気持ち?が好く判る。つまり、何もする事が無いから筆者も、賀状の完成が早かったと云う事で在ろう。
  斯くして「今年も一年、経ぬめり」と為る。
遊鵾独飄々