島原遊里の往年の賑わいを様々に想像しながら、散歩を終えて本願寺の大玄関門前の広場に戻った。愈、お西さんの花灯明特別拝観が出来る時間が始まる。大玄関前の大門広場には沢山の人々が犇めいている。爺さん婆さんが多い中に、ちらほらと勤め帰りと見える方々も居られる。百人づつの塊に為って次々とマイクに導かれて寺院内に入って行く。やっと、我々の番が来た。
  最初は、伏見城の門を移したと云われる国宝唐門で在る。様々な動物が描かれるが、其の内の麒麟の図はキリン麦酒のマークとして有名である。門壁に「洗耳の故事」が描かれる。「洗耳の故事」とは、中国五帝の時代、陽城槐里に棲む許由は廉潔さの評価が高く、堯帝から「位を譲りたい」と言われる。許由は、「汚れたことを聴かされた」と頴水の流れで耳を洗い清め、箕山に隠れたという{「史記正義」伯夷伝・註}。高士として名高かった巣父も曾て、堯帝から譲位の申し出を断っていたが、当に其の時、牛に水を飲ませようとしていた。許由が耳を濯ぐのを知って、「牛に汚れた水を飲ませる訳にはいかぬ」と其の儘、立ち去ったという。
  江戸時代、京都の島原は江戸の吉原、伊勢の古市と並ぶ三大遊里で在った。否、島原花街は秀吉の時代には既に、在ったという事だから最も、古い歴史を誇る。応仁の乱の頃、或いは鎌倉否、平安時代には賑わっていたかも知れない。
  他の二遊里は主に、町人を相手とした色街で在ったが、島原の太夫は御所の公家や皇族、文人墨客、各大名の重臣武士等が相手であった為に教養に長け、舞踊なら名取、師範に為るくらいの芸が要求された。他にも和楽器の演奏や唄、茶、和歌や俳句、香道等の高貴な教養や遊びの知識を持つ事が求められた。また、島原の太夫は正五位の地位を与えられた最高位の芸妓で在った。此れは唐の時代、卓抜した詩才と歌唱力更に、持ち前の美貌で芸妓として初めて宮廷の文書を司る「校書郎」の官職を得た名妓薛濤に倣った官位授与で在ったかも知れない。妓女の異称を「校書」と言うが、此は薛濤の「校書郎」に倣うもので在る。薛濤の詩才は、白居易や杜牧、劉禹錫等の唐代を代表する大詩人の宴席で彼らと詩を交わす程で在ったと伝わる。
  島原花街からは八千代太夫、吉野太夫、夕霧太夫、大橋太夫等の今尚、名声を讃えられる名妓を輩出した。吉川英治の小説「宮本武蔵」には吉野太夫が登場して本阿弥光悦と彼に連れられた宮本武蔵、公卿の烏丸光広と花山院忠長、徳大寺実久、大商人の灰屋紹由等を山家風の茶屋に接待する様子や、心を張り詰める武蔵を「緊張を解け」と諭す場面が描かれる。
  今に名を残す名妓の一人高砂太夫は各寺社に「島原の餅つき」を奉納し、其の「島原の餅つき」は今も尚、各寺社の様々な催しには、島原から太夫がお出まし為されてご奉仕をされる。筆者は、法住寺の節分会で高砂太夫が始めたと云う「島原餅つき」が行われている場面に出くわした。島原からお出まし奉仕為さっていた前結び帯の美形の太夫が、丸めた餅の入ったぜんざいの接待を女房と頂いた事は「法住寺節分会」の項に記した。
  島原遊郭は元禄期に最も栄えたが、立地条件が悪かった事と格式の高さ更に、東京遷都に伴う公家や京の大商人等の転出などによって明治以降は祇園町、祇園新地、上七軒、宮川町、先斗町に人が流れ、次第に衰えていった。
  国の遊里認可鑑札を所有する唯一の揚屋、輪違屋では五人の太夫(花扇太夫、如月太夫、薄雲太夫、若雲太夫、桜木太夫)が今も尚、舞などを披露して営業が為されているという。勿論、「一見さんお断り」で在ろう。島原遊里跡には、前述の輪違屋、博物館として島原の歴史や由来を来館者に鑑賞させている角屋、角屋の前には幕末の長州藩士久坂玄瑞が島原に遊び、新撰組が切り込んだ事が記された石碑が立つ。西郷隆盛も此の里に商人達に軍資金の用立てを懇願したという。
  大宮通から入る東門と其の脇に防火水樽が再建され、水槽の上には三角形状に積み上げられた手桶が列べられて宛ら、時代劇映画に見る色町の様子が江戸時代当時の、火事に対する怖れと警戒を物語っている。島原には四つの門が聳えていたが、再建された東の大門以外には、西門の石碑が立つだけでその他の門は今は無い。斯くして今尚、聳える遊楼輪違屋や博物館として残された角屋の仄かな簾の裡の灯りが、古の花街の賑わいや音曲の響き渡る街路の様を虚しく偲ばせる。
   
さて愈、西本願寺「花灯明」回向の拝観で在る。
  唐門を眺め終えると拝観路は建物の中へ導かれる。玄関の虎の間、太鼓の間を通り抜けると建物の中心を為す「対面所」の大広間で在る。欄間に一刀彫りで彫られた大鳥によって「鴻の間」とも呼ばれる。上段正面には「張良四皓を招く」の図が描かれ、松鶴が描かれた襖画や上々段の間には違い棚、附書院などが配せられる。
  「張良四皓を招く」の故事とは、中国を統一した漢王朝の高祖劉邦が呂皇后の讒言によって「太子を廃せん」とする意図を持っている事を知った名軍師張良が、秦の時代に乱を避けて商山に世を捨てて隠れ棲んでいた四皓と呼ばれた四人の賢人つまり、綺里季、東圓公、夏黄公、甪里先生を自分の屋敷に招いて太子を交えて宴席を開いて遊んだ。四皓が山を下りて太子と友好を結んだ事を知った高祖は、「羽翼已に為る。動かし難し」と言って太子改易を諦めたと云う。後に太子が漢の二代目皇帝恵帝として即位したと云う。
  建屋の西側には対面所の控えの間として三つの小部屋が置かれる。襖の画に因んでそれぞれ「雀の間(丸山応瑞筆)」、「雁の間」、格天井に狩野派の渡邊了慶筆の扇が241種、描かれる「菊の間」が配せられる。三つの間の廊下を経て到る対面所の北側は、三つの続き部屋から為る有名な白書院で在る。一の間の壁画や襖絵には中国の故事が画かれる。一の間は「紫明の間」と呼ばれる上下段に分かれて天皇を招いた時に使われる最も重要な間で在る。三の間には孔雀が描かれる事から「孔雀の間」とも呼ばれる。建屋の西北東には「狭屋の間」と名付けられた廊下特に、東狭屋の間の格天井には様々な書物の画が描かれ、下を通る人々に「勉強しなさいよ」と読書を勧める。中に一匹、八方睨みの猫が書物がネズミに囓られない様に描かれていると云う。格天井を描いた画師の遊び心で在ろうか?

  建物の南北には二所の能舞台が置かれる。白書院に面する「北能舞台」は天正9年(1581年)の墨書銘がある日本最古の能舞台である。重文の「南能舞台」は元禄7年(1694年)の建設で、毎年5月21日の「宗祖降誕会」では祝賀能が演じられる。
  「東狭屋の間」の外側の中庭に設けられた枯山水は、御影堂の大屋根を廬山に見立てた仙人の里、虎渓を表す「虎渓の庭」で在る。女房は虎渓の庭の印象を「庭の広さに比べて石が大き過ぎる事が厳めしく感じる」と言う。しかし、筆者には然程に感じられず寧ろ、御影堂の大屋根を借景にする事によって、御影堂の偉大さが表わされている」と感じた。
  再び、虎の間を通って建物を出ると花灯明会の圧巻と言うべき「飛雲閣」が、堂内の灯りを浮かべて「滴翠園」と呼ばれる庭園の池に映える一角に導かれる。「ふー、此れが聚楽第を移した飛雲閣か?」と感激。池辺の小径の小さな門を出ると御影堂前の大広場で在る。見上げる御影堂の大屋根が大きい・・・。堂内を灯明が浮かび上がらせる御影堂、御影堂の前に置かれた焼香台、何も意識せずに極く、自然な行動として開祖親鸞聖人に焼香して合掌している自分に気付かされた。素晴らしい美術の羅列、安土桃山文化の華麗さに心打たれた花灯明夜間拝観で在った。
  「さすが、石山本願寺に本山を置いた一向宗が天下を治める織田信長と大戦争を展開し、朝廷の勧告に従って和睦して戦いを収めた本願寺だ」と、戦国時代に終焉を招いた石山本願寺の戦いに想いを馳せていた。そう言えば、本願寺攻めの司令官で在った佐久間信盛が、作戦失敗の責任をとらされて高野山に追放された事を考えると、「本願寺は信長に勝った」と云えるかも知れない。

  因みに本願寺が、秀吉の寄進を受けて現在の地、堀川七条に落ち着くのは文禄二年(公元1591年)の事で在る。門主顕如の死後、強硬派の宗徒を率いる長男教如と穏健派の三男准如による跡目争いが表面化し、二人の母如春尼の申し出と此れを採用した秀吉の裁定によって准如が跡目を継ぐ。更に秀吉の死後、天下を獲った家康は本願寺の大きな影響力を怖れ、隠居していた長男教如に東本願寺つまり、浄土真宗大谷派を開かせ、浄土真宗は二派に分裂するするので在る。

「屁放き爺さん折節のお噺」輯第四篇
「都の辰巳に棲まいして」巻一
京都はんなり歌草子
  浄土真宗本願寺派25世専如門主の就任を記念した伝灯奉告法要に伴って催された西本願寺の夜の参拝、花灯明特別拝観を参拝させて頂いた。参拝させて頂いたと言うより筆者の場合、新聞を見てその様な行事が行われているという事を知って「拝観してみよう」と思っただけだから、偉そうな事は言えない。が兎に角、西本願寺大玄関門に夕方6時半頃に到着した。既に、拝観受付をされた方、今から受付をされる方々、沢山の人々が門前広場を埋めている。「19;00から順次拝観して頂きますが、お宅等は20;00頃に来て下さい」と受付のお嬢さんの声。熊本市街地震見舞い義援金として二千円献納させて頂いて、拝観整理券を貰って宗祖親鸞上人の供養法要に参加させて頂く事に為った。此のページは其の記録で在る。               平成29年5月29日(月、晴)

  島原遊里の跡街を時間潰しの彷徨い道草散歩

  本願寺の夜間参拝迄は未だ、一時間半前後の時間が有る。「ちょっと、散歩して時間を潰そう」と女房を誘って本願寺西の大宮通を北に向かう。「此の大宮通りをもっと、北に行ったら大徳寺に突き当たる。其の手前に大宮劇場が在って昔、博士や吉岡に連れて行って貰った処や・・・・」と。「何とか?ミュージックですか?」と女房はさも、蔑む様な眼で私を見る。・・・・。其の大宮通を更に、北に向かって行くと、通りの名は忘れたが、細い通りが在って「島原遊郭大門跡へ670メートル」と書かれた道路標識が眺められる。其の標識を読んで更に、進むと「島原花街跡」で在る。
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本願寺の伝灯奉告法要花灯明会に詣でたお話
  初夏一宵拝観本願寺花灯明、  (初夏の一宵、本願寺花灯明に詣で
        飄々嶋原遊里跡懐古今
  島原の遊里跡に古の賑わい偲ぶ)
古賑楼閣虚遺聳 
     (古の賑わった花街の楼閣今は、虚しく聳え
簾裡仄灯栄華夢 
     御簾に浮かぶ仄かな灯火は栄華の夢を語る
廻頭一看本願寺      首を廻らして本願寺を一看すれば
是値千金花灯明 
     将に値千金と云うべし花灯明供養なり
酒壺を抱く仕女
国宝「西本願寺北能楽堂」
我が里の「石田の杜」のお話
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