一言寺は、一つだけ願いを叶えて呉れるという千手観音様がご本尊である。「ただ頼め 仏に嘘は 無きものぞ 二言と言わぬ 一言寺かな」の御詠歌が掲げられる。阿波内侍が寂光院に移る前、此の地に結んだ庵で在ると伝わる。この日一年を締め括る護摩供養が行われる。
  阿波内侍は、保元の乱に勝利を収めて朝廷を牛耳ったが、平治の乱で義朝に討たれた藤原通憲(信西)の娘或いは、孫娘と伝わる。女官時代には崇徳天皇の寵愛を受け、宮中では安徳帝の生母、建礼門院徳子に女房として仕えた。壇ノ浦で平家が滅んだ後、東山の尼寺、長楽寺で剃髪した建礼門院徳子を大原寂光院の住持をしていた彼女が招き、徳子の死を見届けて翌年、徳子の元に旅立ったと伝えられる。木々が茂る中に静かに佇む風格を備えた寺で在る。平家滅亡、建礼門院の最期、藤原信西の殺害等々の哀しい歴史を想い出させる寺堂は縁日以外は、深閑としていると云う。再び、世に浮かび出る事の無かった平氏に繋がる哀しき歴史を秘める寺で在る。大原女の姿は阿波内侍が山や田で作業をした時の姿を模したと言われる。

  終い観音の護摩祈祷の導師を勤められた醍醐寺の教学部長仲田順映師に、「テレビでお会いさせて頂いています。徳をお下げ下されば・・・」と女房は導師に手を握って頂いて、いたく感激、必ずや観音様と仲田導師のお力で、胆石は治癒するに違いない。  南無観自在菩薩! 南無観世音菩薩!

    阿波内侍 隠りし庵とふ 一言寺 終い観音 接待粥頂く
    一言寺 滅びし平氏 徳子様 哀しき歴史の 観音詣で
    終い観音 深閑境内に 響く護摩 妻の胆石 治癒を祈りつ

        
お歳暮の挨拶

  毎年、この時期に為るとお歳暮が贈られて来た。しかし、最近は此の風習が疎く為ったか??筆者の人生が残り少なくなったのが原因か??届けられる年末の挨拶も次第に減って来た。寂しい事では在るが、世を去らんとする者に、消え行く覚悟を教えて呉れているのかも知れない。
  此の時季、京都の彼方此方の寺社では「終い・・・」と名付けられた様々な行事が執り行われる。去りゆく一年を締め、新年を迎える支度が為されるので在る。                                          
2016年12月朔日

  姪御の真希ちゃんから新潟の金粉入りの酒が届いた。新潟は米所で好い酒が醸し出される。「正月の酒が手に入ったぞ」、有り難く、都の正月を祝うとするか??お返しに「ちりめん山椒」でも贈って遣ろう。2016年12月14日(水、曇り)
      金粉を 浮かべし越後の 酒届く 姪御の歳暮 都の迎春
     雲を裂き 朱珠の今し 沈み往く 我が移り来し URのベランダ
     七階の 陽台に佇ちて ペダル漕ぐ 甚平着る吾を 妻は見居るや
     
  「昔は好かった!今時の若い者は・・・!」老人だけに許された言葉で在る。しかし振り返ってみると、自分たちも昔、お年寄り方に散々に言われてきた言葉で在る。時代や世代は、「今時の若い者は・・・・」と軽蔑され、苦い顔を為れて・・・・次の時代に受け継がれるものかも知れない。 しかし、此の落ち零れ爺さんには、若者に対して、「今時の若い者は・・・」と苦い顔をするだけのものを持っているだろうか?

  博士と吉岡君が、私を始めて「何とかミュージック」の何とか?ショーに連れて行って呉れたのは「大宮劇場」で在った。畏れ多くも、大徳寺の近くだったことを覚えている。娯楽の無き時代の事とて学生に取っても、当時の爺さん方に取っても、古き良き時代で在った。舞台から前に迫り出したせり出し舞台の上から、踊り子のお姐さんが、「あんた、学生さんやねえ。好く拝んどきなさいよ」と声を掛けて呉れた。何か、自分が偉くなった様な気がした。
  三条寺町の矢田寺のカボチャ供養参拝。

  京都の年末は本当に、様々な供養で忙しい。否、大変なのはご近所と檀家の方々で在ろうか??カボチャ供養の参列は三条通りから御池通の手前まで続く。行列の中程で在ったが「此の辺りは食わせて貰えますか??」。「大丈夫ですよ」と行列整理の小父さんとの笑顔の会話。小さな御堂のお寺の暖かきカボチャ接待。此のお堂の鐘は「送り鐘」と云うらしい。鐘は普通、寺に「迎える」という意味の音とか。
   矢田地蔵 送り鐘の音 カボチャ煮の 供養接待 温き師走

  帰路、蛸薬師と錦天神を参拝。錦天神前で鳥居が建物に突っ込んだ様を見上げる。否、反対だよ。鳥居の端を取り込んで建物が建てられたんだよ。其れにしても面白い眺めで在る。テレビでも好く取り上げられる風景で在る。大藤で千枚漬けとすぐきを、錦市場で生湯葉と鱧の照り焼きを買って夕餉に一杯一杯・・・。
                 12月23日(金、曇) 
   ニーハオさんどす 着物着たる 外人女 錦の年の瀬 異語に賑わふ  
懐かしき「・・・ミュージック」のお姐さん
 
  千本釈迦堂で長い行列に並んで大根炊きの接待を受ける。しかし、接待料として「一杯千円の引換券を買え」は少し、高いんじゃないかえ。中身も「油揚げ一枚と大根の輪切り3片」。何と、強欲なお釈迦様だなあ!
    千年の 歴史を語る 大根煮 其の名に比して 値段の高き

  お釈迦様の近く、足立君から紹介されていた釈迦堂の近くの「石像寺(釘抜き地蔵)」に参拝。千本釈迦堂と違って当町内に棲まう人々がお祀りする石造地蔵のお堂で、寺の墓園には藤原定家と其の子、孫の小さなお墓を蔵する。千本釈迦堂と違って、都の片隅の街角の石仏。静かなソソとした様が京の雰囲気を醸し出す。素晴らしいお地蔵様との出遭いで在った。
    石像寺 鎌倉地蔵の 石仏 手合わす人々 祈り幽めやか
東寺の終い弘法    
  終い弘法で東寺に参拝。加藤足立両君から大変混雑する旨のアドバイスを受けていたが、さすがに大勢の参拝者、其れを上回る沢山の屋台店の居並ぶ様に「成る程なあ」と納得させられた。蕗と山椒の佃煮とちりめんじゃこ、豆板を買った。愈、今年も終わりである。早いものだねえ。 「お金が無いのに・・・」と不満を言いつつ、女房が一人で豆板を食って仕舞った。  12月21日(水、晴) 
南無観自在菩薩
「そや、京都に引っ越そう・・・・・」巻一
  小林博士から貰ったメールに、西陣の昔が書かれていた。
  「今出川から丸太町までの千本通り界隈は昭和30年代までは西陣(絹織物の主産地)の経済基盤を背景にして河原町に並ぶ下町として繁栄していた。京極の映画館街と同様、映画館街があり、その一角に「千中ミュージック」も在りました・・・・・」と。

また、新京極の賑わいにも話題が及び・・・。
  新京極通りのチョットした空き地広場は「新京極ミュージックストリップ劇場の跡かも知れない」と妙なときめきを覚えた。    小林博士からのメールは、「京極には富貴?という寄席が在った、30年代に一時期ストリップ劇場になっていたことが在る。子供のころ家族で「富貴」によく出かけた。福団治を名乗っていた2代目春団や女浪曲師双葉ゆり子、蝶々雄二など後日、大成した芸人の若い頃を見たのはこの劇場で在る。ストリップ劇場に代わってからは行ったことが無い」と昔話が届く。

ストリップショーの想い出と言うと叱られそうで在るが・・・・・
  博士と吉岡君に始めて連れて行って貰ったストリップ劇場のお姉さん方の・・・が目に浮かぶ。もう半世紀以上の昔の事。あの頃は純情だった。そう言えば、「あんたも好きねえ」という加藤茶のコントもあったねえ。「昔は好かったねえ」は老人だけに許される名セリフだろうか。
   旧友の 便りに想ひぬ ストリップ 初めて見し日の 驚きし事
   昔は好かったは 老人だけに 許されし 言の葉為らん 昔も今も
ー飄逸色仙の京都はんなり歌草紙ー
一言寺(金剛王院)の終い観音(お粥接待)   12月18日(日、晴)
「そや!京都に引っ越そう」巻2
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