二人は、「日中国交回復運動」に身を投じ、「日中友好協会」の端くれのメンバーとして一応名を連ね、デモや署名活動に参加する事に為ってしまった。村田君は主義に目覚めてその後、学生運動の活動家として、革命運動の志士の一人として成長をする。一方の筆者は、此の方面でも落ち零れであった。日中友好運動が日本共産党に指導される派と中国共産党の考え方に同調をする二派に分裂するに及んで嫌に為ってしまった。”友好とは仲良くする事である。主義や考え方を押し付ける運動では無い筈である。主義や考え方を超越するべきものではないのか?・・・”と、一端の思想を偉そうに振り回した否、屁理屈を言って運動から逃れただけかも知れない。

  社会に出て時間だけが虚しく経過した或る時、仕事で台湾に出張を命じられたのが中国と再会する切っ掛けと為った。一九八八年の事である。台北の夜の街、酒舗クラブの壁に掲げられている漢詩の墨跡を美人ホステスが読んで呉れた。耳に馴染む優しい響きが声と為って聞こえて来た。其処には、日本語で読む漢詩の彼の抵抗感のある硬く難しい、理屈っぽい響きがまったく無い。"そうなんや!詩や歌は元々、書く文学じゃない。書かれたものを読む文学でもない。記録の為に文字に残されるだけで本来は声に出し、耳から心に入れる文学やったんや”と気が付いた。耳に聞こえた美女の優しい響きが、筆者を中国語の擒にしたかも知れない。
  帰国後、日中友好協会が主催する中国語会話教室で中国人留学生から中国語を教えて貰う事が出来ると聞いて早速、中国語を習い始めた。中国語の四声の醸し出すリズム感、耳に馴染む優しさの擒になって夢中になる。詩を読んでも、漢文にしても日本語で読まれる抵抗感の有る難さが全然無い。柔らかい響きがスンナリと耳に流れ入る。詩や歌は元々、書く文学ではないし、読む文学でない筈である。短歌がそうだ。"東”をわざわざ "ひむがし”と読ませ、"二月”を "にんがつ”と詠ませて七五調に合わせる。日本の七五調は耳や口に馴みやすいリズム感を持っている。平安時代や奈良時代は自作の詩を宴会で朗詠して宴会に彩づけした事が伝えられている。「詩吟」という朗詠が行われる。只、「詩吟」は日本語読みで吟われるので聴き心地は難いがその後、中国に屡々行く機会に恵まれて益々、中国との関係が深くなった。中国人の友達も沢山出来た。
  斯くして、中国との付き合いが益々、深く為って此の「折節のお噺」輯に紹介する「上海触れ合い街歩き」と為り、「中国鉄道貰い食いの旅」或いは、「平成遣唐使唐土を彷徨う」・・・・、更に、偉そうに「三国志翻訳研究家」と名刺に刷り込むに到るのである。
                           以下、本文に続く・・・・・。

「屁放き爺さん折節のお噺」輯第一篇

中国触れ合いの旅

平成遣唐使の唐土を彷徨い歩き

日中国交回復運動への参加

  今は、もう半世紀を超える昔、筆者が大学に入学した頃のお噺で在る。或る日、村田国昭君という気の合う同学と喋)り乍ら歩いていた。前を美人学生が同じ方向に歩いて行く。恐らく上級生であろう。飄々と付いて行くと彼女は「中国研究会」という看板の掛かったクラブ室に入って行く。暇を持て余していたので其の看板の前で煙草を吸ってダベリング{昔は暇を持て余して所在なさ気に喋る事をダベリングと言った。今の地ベタリアンで在ろうか?}をしていたら、件の美人学生がクラブ室に招き入れてくれた。"紅茶を飲ませて上げよう”。彼女は陳雪花と自らを名乗った。中国人留学生である。大陸出身か?台湾出身か?華僑の娘か?は遂に聞き漏らした。筆者が中国と接した最初の経験である。
  彼女に誘われる儘に中国研究会に入部をしてしまった。彼女の澄んだ目の、異国の娘と云う美女ぶりが、二人を入部させたのかも知れない。筆者が「日中国交回復運動」へ参加する切っ掛けで、此の出遭いが半世紀もの後、筆者を「唐土彷徨い旅」に夢中にさせている事に到らせるで在る。

「中国鉄道貰い食いの旅」巻二
(orifusi2.html) へのリンク


「折節のお噺」第二話”鉄道貰い食いの旅”2
中国触れ合い街歩き」巻一”上海の街歩き”
(orifusi1.html) へのリンク


「折節のお噺」第二話”触れ合い街歩き”2

  彼女や中国研究会で知り合った先輩女史達の感化宜しきを得て、毛沢東が指導する中国の大躍進に目を見開かされ、「人民中国」のグラビアに載る中国娘の明るい笑顔に魅せられた。其の内に、日本の政府や産業界が台湾の国民党政権を、中国を代表する政府と認めている事への疑問を抱き始める。何故、日本やアメリカ、国連迄もが大多数の中国の国民が棲んでいる地域を支配する共産党政府を認めず、多寡が二千万人を治めるだけの国民党政府を世界で一番多くの人口を抱える国の代表として認めているのだろうか?