「屁放き老師三国志に遊ぶ」曹操篇
表紙
三国志翻訳研究より、「烏鵲南に飛す」
多くの否、殆どの三国志に纏わる文学作品に於ける曹操は悪逆非道其のものの存在として、敵役に徹している。恰も、諸葛孔明を際立たせる為に存在するようで在る。筆者は思う、”逆ではないのか・・・・・・・”と。悪逆非道の権化で在る曹操が何故、天下の十一州の七州を治め、正義の味方の劉備や孔明がたった、一州其れも、「蜀の桟道」という狭い通行不便な道路で隔てられた辺境の地に割拠して、天下を治める魏王朝の国境を荒らすだけに終わらなければ為らなかったのか??
南宋時代に大儒学者朱熹が彼の理想とする統治者像を孔明に求めた事は常々、筆者が唱える処で在る。此のホームページにの何処かに述べた処でも在る。朱熹は朱子学の祖として国家統治の理念を説いた。 其処には”君に忠、親に孝”を基本とした秩序が尊重される。「仁、義、礼、智、信」の五常を心の拠り所とするのが儒学の教えで在る。つまり、”仁は慈しみや愛、義は正しき筋道や、法の遵守、礼:人の履み行うべき秩序や儀式、品節、智は智慧や悟りで、信は誠、真を守るという五つの徳を養え”と云う。
第二篇、「曹丕と曹植」
第三篇、「蔡文姫詩集を読む}
第一篇、「曹操」
朱熹は、漢王朝の権威復活を目指して皇帝周辺のしきたりや秩序を破る曹操が許せなかった様で在る。多くの皇帝を取り巻く、重臣達が旧来の秩序を守ろうとする試みを破る曹操は逆臣で在る”と彼の目には写った。重臣に唆されて彼の改革に反対した皇后までをも殺害した曹操が許せなかった。「曹操簒漢」説の登場で在る。
従来、「漢王朝を継ぐ政権は魏王朝で其れを受け継いだ晋王朝」と云う古来の歴史の流れを彼は、”曹操が漢王朝の皇権を簒奪した”と唱える事によって「漢王朝→蜀漢王朝→晋王朝」と主張す。
其の後、政権を担った各王朝で、国家統治理念として彼の「朱子学」が重用されるに従って、”「蜀漢王朝」が漢王朝の政権を受け継ぐべき正統な王朝で在る”事が歴史認識に反映され、今日の三国志、”劉備孔明正義派、曹操悪人”が出来上がるので在る。
陳寿以降、朱熹以前の中国史の王朝経過は魏王朝正統説、蜀漢王朝は”地方政権という位置付け”で在る。此れはこの頁の「烏鵲南へ飛す」で述べる。因みに曹操は”我は武王に非ず、文王為らん”と漢王朝の皇権を犯す事なく、”漢王朝の丞相魏王で在る”事に拘った。漢の献帝に禅譲を迫って魏政権を開くのは彼の息子、曹丕で在った。
曹操の名誉回復