世の古今東西、人類は世紀末と云うと何か、不気味なもの?或いは期待?・・・何かを感じるらしいと思う。似非学者は世紀末を理由に、”人類の危機が今にも起こりそうだ”と素人にの安心を煽り、インターネットや雑誌、新聞テレビ等、マスコミを大騒ぎさせるので在る。最近では、マヤ暦の第五長期暦世界の終焉、第六長期暦世界の始まりを告げると云う公元2012年冬至の頃の大騒ぎが在った。コンピューターの二千年問題は未だ、筆者の思い出の中に在る。”公元2000年1月1日以降の飛行機フライト予定はコンピューターに組み込まれていない。何処へ行って仕舞うか?判らない”と云う理由で、12月31日午後以降の日本向けフライトがキャンセルされた。日本向けだけで無く、多くのフライトが取り止められた。筆者も大晦日の夕方、日本に帰国する予定で在ったが、フライトキャンセルの為、上海紅虹空港近くのホテルに新年を迎えさせられる嵌めに為った。此の時、実際に筆者のPCは二千年問題をもろに受けて、日付が2000年から1968年に戻ってしまった。”32歳も若返ったぞ”と女房始め、友人達に自慢したが、”阿呆か??”と相手にされなかった。
マヤの世紀移行や二千年問題以外にも、平安末期には多くの貴族達の不安が煽られ、多くの寺院が建てられ、阿弥陀様が彫られた。文頭の余談話は此れくらいにして・・・・。
閏を詳しく説明すると、閏月は太陽や月の運行から算出された暦を実際の四季、季節に当て嵌める為に設けられた。太陽は30日をかけて一ヶ月を経る。一年は360日となって五日のずれを残す。此を「気盈」或いは「大餘」と呼んだ。一方、月は二十九日余を行して一ヶ月を経る。一年でやはり5日余りのずれ、「朔虚」或いは「小餘」を残す事になる。此の儘放くと、季節を大きく狂わせる。暦と四季のずれは3年で約一ヶ月、5年で約二ヶ月の狂いが生じ、遂には暦の夏に雪が降り、冬にかき氷が欲しくなる事態にも為りかねない。其処で、五帝の一人唐堯は「閏月」を設けて暦を四季に合わせ、制度化して農耕や人々の暮らしに適用した。"閏月を以て四時を定め、歳と為す。”と「書・堯典」に記載される処である。
中国以外でも、古代マヤ文明の優れた天体観測が有名であるが、太陽や月、金星等の星の観測から算出されて実用に供された暦は、農耕(焼畑農耕)や都市間の戦争等、人々の生活の全てを司った。グレゴリオ暦の紀元前3114年8月13日に始まり、紀元9世紀にテイカルの都市が放棄される迄の間否、マヤ文明が滅ぶ16世紀まで使われていた。古代マヤ人は一年が365.24日である事も知っていた。此の様に素晴らしい暦を発見したマヤ人達も伝染病には勝てず、16世紀スペイン人によって持ち込まれた疫病によって90%の住民が死亡して暦と共に消え去るのである。しかし今も、マヤ人は毎年播種期を迎える春にテイカルのピラミッドの広場に集まって太陽に豊穣を祈ると云う。マヤでは今も暦が生きているのである。
マヤと同じ様にアメリカ大陸に栄えたインカやアステカでも暦が作られ、利用された。しかし、アステカの暦を支配する太陽は恐ろしい神であった。人々に生贄を要求したのである。戦争で捕らえた敵の戦士の心臓が生きた儘、えぐり取られて太陽に捧げられた。インカでは傷やホクロの無い子供達が、新たにインカの支配下に参加した国々の信仰対象としてミイラにされる犠牲と為った。マヤの北部の密林にある湖、セノーテの底には雨の神に捧げられた子供の頭蓋骨が沢山、発見されている。南米の神々は生け贄を求める恐ろしい神でも在った。
古代エジプトでは夜明け前に輝くシリウス星と毎年起こるナイル河の氾濫サイクルから暦を算出した。十進法を基本にして、一年を洪水季、播種季、収穫季の三つの季節に分け、一年は12ヶ月、各月30日(10日毎の上旬、中旬、下旬)で360日とし、此に年に一度、5日の祭礼の日を加えて一年を365日としていた。微調整(0.24日の端数調整)は、シリウス星が夜明け直前に顕れる日と洪水季の1月1日が一致する日を「真の正月」として特別に祭って調整していた。また、60進法を編み出した古代メソポタミアでは吉凶を占う為に天体観測が行われて太陰暦が使われた。此の様に古代の世界の各地では播種や収穫の時期を正確に知る為に天体観測が行われ、其の観測から暦が完成されて実際に使われていた。
エジプトのラムセス二世がブタハ神、アメン神、ラーホルアクテイ神の3像と並んで鎮座するアブ・シンベル神殿では、春分の日(エジプト暦2月22日)と秋分の日の朝日が神殿の一番奥に坐すラムセス二世等の像を照らす仕掛けが今でも観光客を集めている。又、マヤの一都市チチェンイツアー遺跡に在るピラミッドでは春分の日、陽が西に傾く頃に豊穣の神・大蛇ククルカンが姿を現わして人々に播種の時期を知らせる。
此の様に、気が遠くなる程の昔に計算された暦は、古人が現代に残す偉大な建造物にも遊び心を提供する程、正確な素晴らしいもので在ったのである。今我々が使っているグリグリオ暦の四年に一度の閏年は紀元前45年1月1日にユリウス・カエサルによって採用された太陽暦(ユリウス暦)に始まる。
此の様に暦は、人々の生活に欠かせないものであった。"古今東西を問わず古人の英知は凄いものだったんだなあ。”と私の様な浅学な老人は唯々、古人の英知に感嘆するだけである。我々現代の人間は古の時代から進歩したんだろうか?本当は古の時代の方が科学は進んでいたのではなかろうか、と虚しい想いに耽らされているのは筆者だけであろうか?
”閏余りて歳を成す”(1年は13ヶ月???)
「閏餘成歳」”文字と暦の到来”巻四の3
ー人類は世紀末がお好き?????ー
中国南北朝時代、南朝の一国梁王朝時代に編纂された「千字文」の中に”閏余成歳、律呂調陽”という一節が在る。”閏という余った年を設けて四季が調節され、陰陽は管弦で調整する”。という意味で在る。「閏」とは、「太陽の一ヶ月の運行30日と月の運行一ヶ月28日余り」の調整の事で在る。
此の太陽と月つまり、朔望月{月の満ち欠け}の調整は古今東西、大問題で様々な試みが実施された。古代ギリシャではメトンと云う数学者が「メトン周期」つまり、”19太陽年は235朔望月にほぼ等しい。19年×12ヶ月:228ヶ月なので、19年間に7ヶ月の閏月を加えて調整する”と云う原則を発見した。公元前433年の事である。
中国でも堯帝(公元前2357〜公元前2258年)の時代に閏月を設けて四季を調整した。"閏月を以て四時を定め、歳と為す。”と「書・堯典」に記載される。此れは破章法と云って19年(1章)に7度の閏年(1年13ヶ月)を置くというものである。古代ギリシャと三皇五帝時代の中国と奇しくも、同じ調整年の「閏」が使われた事に為る。
”飛行機が、何処かに行ってしまう”