”何も為てへんのに何んで、殴るんでっか???”

「あかんたれ二等兵、父の従軍記」

異郷で親父と出遭う

”うーん、行ってみたい。漢口なら此処じゃないか。午後の便に乗るなら正午にホテルを出発すれば好い。今、七時半である。時間は十分に有る”と食後の珈琲を片手に考えた。"好し、ホテルの誰かに訊いてタクシーで行ってみよう”と決心した。
  筆者は、武漢周辺に来た時は必ず此処、漢口に在る江漢飯店を定宿にする事にしている。十九世紀、フランスの租界跡に建つ欧州風の落ち着いた雰囲気の佇まいと部屋の造り、其れに豪華な階段の木彫が気に入って常に、此の江漢飯店に宿泊する事にしている。
  食事を終えた私に、ホテルのフロント係の美人小母さんが言う。"あー、龍王廟だね。此処から三公里位かな。タクシーで十分位ですよ”と。"今から直ぐ、行ってみます”と部屋にも戻らずその儘、タクシーに乗って飛び出した。タクシーは、ホテル近くの大通り、反対側に堤防が続く車道を走る。其の堤防の向こうが長江の河畔に為っていて船着き場も在る。有名な長江三峡下りも此処、漢口が下り船の終点と為り、上り船の起点と為る。重慶からは長江を下って四日間、重慶へは上りで五日間の船旅であると言う。”此の港から長江を遙かに下って上海までを往復する貨客船も航行しているよ”とタクシーの運転手は話す。
  千八百年昔、劉備)や孔明も此の辺りの船着き場から、遙か上流の蜀の国を獲る為に軍勢を進発させたのであろうか。否、当時の劉備軍の本拠はもっと西、長江の上流の広陵
(今の荊州)に在った筈だから違う。そうか!此処は劉備が曹操に負けて逃げて来た夏口だった。・・・・・。と三国志に想いを馳せていると、”此処が竜王廟だよ”と運転手の声が筆者を現実に引き戻した。二つの大河の合流点を望む小高い丘が「龍王廟」である。筆者が訪れた此の時は「龍王廟公園」として生まれ変わる為の工事中で在った。大きな卸問屋街も近くに在って賑わうらしい。”寄ってみるか?”。公園では沢山の年寄りが太極拳に興じたり、手摺りに座ったり・・・。”中国も日本と一緒で年寄りが多いなあ”と自分の歳を忘れて感心している。龍王廟から車道を越えた所が長江と漢江の交わる龍王灘である。長江に流れ込む漢江の水が渦を巻いて流れに飲み込まれる事に無駄な抵抗をしている様にも見える。「遊泳禁止」の看板を無視して泳いでいる老人がいる。河畔では喋ったり、ダンスを楽しむ老男女がいる。互いに咬み合う流水とは裏腹に、人々に朝の散歩道を提供している温和な河畔の長閑な風景である。遙か向こうの丘の上に黄鶴楼が薄もやに霞む。黄鶴楼の在る丘から長江を隔てて、なだらかな起伏を見せる丘は亀山である。此処は漢口、漢陽、武昌の三つの街が二つの大河に阻まれてそれぞれの領域を守る地でもある。「両水一処に三鎮分かつ」雄大な眺めに詩情が沸く。
  渦巻く流れを見ているとふと、父を懐った。”’日中戦争当時、漢口占領作戦の応援部隊の一兵卒として、九江から歩いた’と語っていたが、親父も此の景色を見たんだろうか”と今度は父に想いを馳せる。九江は此処、漢口、当時は夏口から長江を何キロか、下った処に在る。「赤壁の戦い」の当時、呉の本拠が置かれ,孫権を囲んで参謀達が、呉越を滅ぼして天下統一をせんと、長江を攻め下って来る曹操軍を前に、和戦の激論を交わし、孔明が「孫劉同盟」締結を実現させて、「曹操軍撃破」という栄光を周瑜にもたらした処で在る。

  "何にも悪いことをしてへんのに直ぐ、殴るんや”。父の声が聞こえた様に思えた。そう言えば、父は此の近くの顎州にも駐屯していたらしい。一兵卒として中国に連れて来られた父の、此の言葉は「南京大虐殺」に似た中国人弾圧事件が至る所で行われた事を意味する。そう言えば、筆者が一年近くを駐在して、生産管理や経営管理を教えた縫製工場の在った鉄山という小さな町にも、煉瓦立てのアパートが古びて建っていた。”日本人の将校や鉱山関係の技術者さん達が住んで居た”は散歩途中の古老との会話で在った。此処、武漢周辺は鉄鉱石が多く掘り出される。筆者が居た鉄山には今も、露天掘りで手鉱石を採掘している鉱山が在る。鉄の資源を求めた旧日本軍が、長江を遡って此の地を占領したのは、此処の鉄鉱石が目的で在った。
  鉄山は反日感情」が強い地で在る。”「馬鹿野郎」という言葉を中国で使ったら駄目ですよ。中国人は誰もが心の底に反日感情を抱いているから・・・”は筆者が日本を発つ前に中国人留学生の餞の忠告で在った。
  "彼は何もしていないのに何故、殴らないといけないんですか?”と父は、上官に訊ねて部隊で物議を醸した事があったらしい。”自身を偽る事が出来ない父の性格が、戦争という極限状況にも関わらず、咄嗟の行動を支配していたのか”と改めて父の姿を知った。父は此の発言で殴り飛ばされた。お陰で?終戦を待たず内地へ送還されて九十三歳に到る長寿を全うした。"こんな弱虫の兵士は何の役にも立たない。部隊の士気に影響するから早く内地へ帰してしまえ”と部隊の首脳部に判断を悩ませたのかも知れない。

  年による痴呆に陥る前の父との会話である。一方は戦争の為、他方は業務工作?或いは愛人??に逢う為??”否々えへへへ”と理由は違うが、広い広い中国の其れも一点と言うべき所に、六十年以上の時を隔てて父と子が出遭う、何かの縁を感じた龍王灘の見学であった。

  漢水の長江に流れ込むを看て詠みし一首

   漢水長江帰一処   漢水長江一に帰す処
   流水相咬三鎮隔   流水相咬みて三鎮隔つ
   佇龍王渚懐古今   龍王廟の渚に佇みて古を懐べば
   遙黄鶴楼聳煙霞   遙かに黄鶴楼の煙霞に聳ゆる

  異郷の恋人との逢瀬を楽しみ???否々、依頼された仕事も前夜で終えた或る朝の事で在る。その日は午後の便で武漢を発って広州の友人を訪ねる予定で在った。予定をしていた目的を終えてほっとした朝食、ホテルで出されるお粥、中国ではシーファン(希飯)と言うが、碗のお粥を啜っていた時、或る事を思い出した。前後の脈絡も無くふと、頭の中にその或る事が浮かび出て来たのである。其れは昨年、NHKのハイビジョン放送で放映された「俳優の関口智宏”中国鉄道大紀行”」の一場面で在る。彼が、漢口での列車乗り換え時間を利用して、長江と漢江が合流する雄大な景色を尋ねた場面である。
  筆者は中国に何度も来た事があるし、その度に武漢は訪れる。武漢近郊の街、黄石市の鉄山という小さな鎮には、一年弱の駐在をした経験を持つ。だが終ぞ、長江と漢江の合流する風景は眺めた事は無かった。誰も案内して呉れなかったし、教えても呉れ無かった。否、他人のせいにしてはいけない。テレビでは流水逆巻く雄大な景色を眺めながら、関口智宏が珈琲か?お茶で朝食を取っていた。

「千字文第一篇」”あかんたれ二等兵戦記”
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