同じ頃、親父が昔、中国でお世話になった人がどうも、東大寺に居るらしい。という情報が我が家にもたらされた。父は支那事変という中国侵略戦争で中国に出陣し、漢口占領作戦に参加していた事がある。出陣や参加と言うと勇ましいが、要するに徴兵された一兵卒として中国へ連れて行かれただけである。父は臆病である。此のDNAの情報は私にも伝えられて私も臆病である。子供の頃は泣き虫で好く虐められた。親父は、"戦争が嫌で、嫌で為らなかった。・・・”と言う。"無辜な中国人を殺すに忍べなかった”と偉そうな事を言っていたが、本音は戦争が恐かっただけで在ったろう。上官から中国人を殴れ、と命じられた時、"彼は何もしていないのに何故、殴らなければ為らないのですか?”と言って部隊で物議を醸した事もあったらしい。其の当時、漢口{今の武漢}付近の日本軍はマラリアに罹る兵士が続出していた。今も武漢の回りは湿地帯である。飛行機から見ると沢山の池や沼が有るのが好く分かる。昔、長江から溢れ出た水が湿地帯を造ったのであろう。"各部隊二名ずつ内地に帰還させよ”と命令が下された。日本軍の性格の可笑しさである。マラリア患者を内地送還させるのなら何故、各部隊二名と決めるのか理解に苦しむ。それともマラリアに罹る兵士は各部隊に二名と決まっていたのか・・・・。父は其の二名に加えられた。先に述べた様に、”こんな臆病な、命令に異を唱える兵士は部隊の戦闘意欲を削ぐだけだ。とっとと内地へ帰してしまえ”と部隊の指導者は考えたかも知れない。此の時の軍医が清水公照師のお兄さんで在ったらしい。此は後に分かったことである。お陰で父は戦争の終了を待たずに除隊し、帰国したのは「折節のお噺」巻三の3でも述べた。其の父も平成二十年に亡くなった。享年九十三歳で在った。
我が家と清水公照師との付き合いが始まった。
”倅も字を稽古して居りまして・・・”と臆する心を隠そうと親父は筆者を持ち出す。”そうか、千字文を稽古してるんか?教えたろか?”。若き日の筆者の東大寺通い」が始まった。
師の墨を摺っていると色々な人に出遭うことが出来る。其れもテレビのニュース報道や新聞の紙面で出会う方々、社会のリーダーとされる方々が多い。此の様な偉い先生方は本来ならば、道端から崇め奉らねば為らない存在の方々で在る。しかし此処、大仏回廊アトリエでは簡単に声をかけて呉れる。清水公照師の偉さで在ろうか?ものに拘らない師の雰囲気に呑まれるからで在ろうか?若者の畏れを知らない厚かましさが頭を擡げてくる。ついついざっくばらんな雰囲気に呑まれて、喋ってしまう。”そう、君たち若者はそんな事を思っているのか?まあ、世の中は・・・・”と様々な事々をお教え頂いた。一つ印象に残るお噺は、M氏から聴かされた経営否、裁断の仕方で在る。”新しい事業を始めるか?止めるか?の決断は簡単で在る”と氏は言われる。”反対意見が出ない場合は取り止め。反対意見が出れば’進め’だよ”と。問題が提起されて、検討が為される。彼方此方から検討に検討を重ねて始めて、事業が成り立つ。検討無き場合、大問題に直面して始めて、解決策を模索する。問題が出てからでは遅い。検討に、検討を重ねた場合、直面する問題に対する解決策は既に、出来上がっている”というのが氏のお噺で在った。だから、トップリーダーは反対意見を大事にしなければ為らない”と仰る。”成る程なあ”と感心したが、その時は感心だけに終わって仕舞ったが・・・・。
後年、中国に行く機会を得、諸葛孔明の兵法に出遭って、氏が昔に語って呉れた「決断の仕方」を思い出した。孔明は言う、”三人に占わせ、二人の賽に従え”と。”三人同じ賽が出れば或いは、思考に余ったら、衆に問え”と。つまり、”多くの意見を収集せよ”と云うのである。そう言えばM氏は言っていた。”会社の存続を脅かす程の大問題は、社員全員の意見を聞くべし”と。
”世の東西古今を問わず、社会の指導者の方々の仰る事は皆、同じで在る”事を認識させられた清水公照師の「大仏回廊アトリエ」での一刻の想い出であった。、
「千字文」との出会いは古い。私が大学を卒業して直ぐ、父の戦友でも在った東大寺の清水公照師から毛筆の手解きを受けていた頃、つまり、今から半世紀も昔の事である。和歌山でお茶を教えていた伯父の影響を受けて私も、近くの行基生誕の地と伝えられる家原寺のお庫裏さん{住職の奥さん}に入門をして痺れる足に閉口し乍ら、お茶のお手前を習い始めた。茶室では床に軸が掛かっている。上手い字であるが大概は草書で書かれていて読めない。一行に書かれた趣や教えが理解し難い。"まあ、お茶を習うんやから習字の稽古位はしておかないと・・・”と習字の稽古を始めた。常々、親父やお袋から、"お前の字は下手だ。下手だ”と言われていた事への反発も有ったかも知れない。何か手本は無いかと親父の書棚を捜して見付けたのが「三体千字文」である。千字から為る文の総ての文字が異なるという。"好し、此を手本にして字の稽古を始めよう”。小学校時代、歴史の時間に、"王仁博士と云う人が朝鮮半島から渡来して「千字文」と「論語」が始めて伝えられた”と教えられた事が記憶の底から蘇った。
「屁放き爺さん折節のお噺」
あかんたれ二等兵戦記巻二
「千字文」巻一
反対意見の無い事業は見送れ