魏の主将司馬懿は対峙戦を望んでいたが実際に孔明が彼の望み通り、長期対峙の戦法を採るとは想像もしていなかった。長期戦になれば食糧や武器、色々な物資の確保を計らねばならない。険しい「蜀の桟道」を通り、天険を為す秦嶺山脈を越えなければならない蜀軍の兵站輸送の困難さは目に見えている。当然、司馬懿や魏の皇帝、曹叡は蜀軍が直接、長安に攻め込んで来るものと信じていた。此の戦いに先立つ四度の北伐は常に迂回戦術を採って背後を固める戦術を採っている。ところが今回は、蜀から関中平野に通じる街道では最短の褒斜街道を北進して来た。此が何よりの証明であると戦々恐々としていた。ところが、孔明は拠点を構えて長期戦の構えを見せる。屯田までして食糧の確保を準備したという。"好し、此方も陣を布き、戦わずして相手の弱体化を待とう。兵力は我軍が遙かに大きい。物資の供給面でも我が軍が有利である。”と魏の迎撃部隊も、後方の朝廷も思った事であろう。此の長期対陣の戦法には蜀軍の内でも反対の声が上がった。常に孔明の先鋒を勤めている勇猛な将軍の魏延が異を唱える。"私に一万、其れが叶わぬ場合は五千の兵を与えて欲しい。一軍を率いて間道を伝い、長安を直接攻めて魏軍の後方を攪乱させて見せましょう。”と。参謀を務める将軍達の内にも魏延の作戦を支持する者が多かった。しかし、孔明は許さず、対陣半年後の西暦234年の秋8月23日、主将自らの命が尽きて蜀軍は退陣せざるを得なくなり更に、二十九年後の蜀漢王朝の滅亡を招く事になるのである。

  「三国志・諸葛亮伝」で蜀末から西晋時代の大歴史家、陳寿は言う。"孔明は管仲、蕭何に匹敵し、其れに優るも韓信、楽毅に及ばず。”と。つまり、孔明は治世には優れていたが、戦いは得手とはしなかったと言う。他の史家達の記載にも、治世や戦略家としては伊尹や呂望に匹敵すると、国家を造り上げ、国家を治める事に秀でた点を強調する。しかし、戦術には見るべき戦果を上げていないと陳寿の説に賛成をする。筆者も賛成である。
  更に彼の作戦を観察するに、非常に臆病な性格では無かったか、とも感じられる。第一次の北伐では魏軍の力を過大評価する余り折角、魏を裏切って蜀に帰属していた隴西三郡を支援する為の進出に手間取り、拙稚な将軍、馬謖を抜擢して歴戦の勇将、張郃に大敗して軍を引かねばならない事態を招く。第二次北伐では、長安へ進出する街道、陳倉道の要衝、陳倉を囲むが緩慢な軍行動によって、守備側に十分な備えを固める時間を与えて数万の軍勢を催しながらも僅か、数千人が立て籠もる城を抜く事が出来なかった。彼の戦術を見ると、完全主義者の様にも思える。準備を完全に施してから行動を起こす事が多い。乾坤一擲の大博打を打つことは最後までなかった。
  此の「五丈原の戦い」について「三国演義」や後世の小説、研究書の多くは、司馬懿が孔明の度々の会戦の誘いを無視して持久戦を続けたと述べる。しかし、会戦による雌雄を決する事に躊躇したのは寧ろ、孔明では無かったかと筆者は想像する。其れは・・・。
  曹操(魏)、孫権(呉)、劉備(蜀)の各軍閥による中国統一戦つまり、三覇の時代を開いた「赤壁の戦い」の後、諸葛孔明は劉備軍団のナンバー2として常に、軍行動の指導や占領地区の統治に当たり、劉備軍団の成長と共に三国志の表舞台に躍り出た。劉備軍団は終には、巴蜀を占領して足場を堅め、魏や呉に比べると国力では見劣りはするものの、三国の一角を占める蜀漢帝国を建国する。蜀漢王朝の丞相の地位に在った孔明は軍団の主催者、劉備の死後、劉備の息子劉禅を皇帝に戴いて蜀漢王朝の全権を掌握する。蜀漢帝国の政治や経済、法の執行等の全て、更に軍事迄もが彼の才覚に委ねらた事によって国家の繁栄と存亡という大命題が彼の肩に懸かって来た。王朝の安泰のみならず、蜀に住む民衆の生活迄もが彼一人の肩に重くのし掛かって来たのである。しかし、人間の寿命には限りがある。彼はこの時既に、胃を病んでいて長く生きられない事を自覚していた。胃潰瘍か胃癌であろう。自分の死後も国家を存続させなければならない。国民に「安居楽業」つまり、安心して暮らし、生業を楽しませて国の繁栄を計らねばならない。
  此の「五丈原の戦い」を興した時、孔明は既に国内の権力闘争を乗り切って、彼の政策に反対する勢力は力を失っていた。又、彼が育て上げた第二世代、後継者達への権力委譲も無事に終えて、自身の亡き後の蜀漢王朝の前途には何も思い残す事は無かった。今は居ない旧主、劉備との約束事の内で孔明に残されたものは、魏の皇権簒奪によって亡んだ漢王朝の復興と、漢王朝の後継を自負する蜀漢王朝による中国全土の統一を成し遂げる事だけであった。魏軍を完膚無きまでに叩きのめす事だけであった。しかし、魏王朝は中国の其れも、中原を含む六割の地域を統べ、人口比率でも七割を占めている。而も強固な政権の運営を行っている。兵力は蜀を何倍も凌駕している。三国の内のもう一つの国家、呉王朝とは同盟を結んでいるが、呉と蜀二国を併せても魏王朝の軍事力には遙かに及ばない。
  実際に此の時期、魏の東部戦線では孔明の五丈原への出陣に呼応して呉の皇帝、孫権は自ら十万の兵を率いて合肥を囲み、別働隊の孔明の兄、諸葛瑾と名将、陸遜は荊州から北進して襄陽に兵を進めていた。しかし、合肥救援に駆け付けた魏の歴戦の勇将、満寵に主力軍の孫権が大敗して呉軍は兵を引く。当然、東部戦線の兵、三十万が西部戦線の蜀軍に振り向けられるであろう。蜀軍は直接、対峙している司馬懿の二十万と長安を守備する十万の後備軍、其れに加えて東部戦線から振り向けられる大軍とも戦わねばならない。とても会戦どころではないと孔明は考えた。
  常識的に考えれば、会戦では火力の大きい方が勝つ。此の時代の火力は兵の数に比例する事は前に記した。当然、兵力の大きい方が有利である。弱が強を打つ場合は何らかの冒険が必要である。しかし、負ければ元も子も失って軍は壊滅、王朝は滅亡ということになる。"魏を滅ぼして天下統一を果たす等、とても出来る相談ではない。寧ろ、蜀漢王朝が滅ぼされる可能性の方が大きい。”と孔明は考えたであろう。"三国が鼎立して互いに、牽制をし合っている現状の維持を計ろう。五度も北伐軍を興した事で今は亡き主公、劉備との約束を果たそうと懸命の努力をした忠義さは今の世にも、後世にも認められるだろう。王朝の存続を第一に考えよう。一か八かの大勝負をし賭けて国を滅ぼすよりも、兵力を温存させた儘、国を残す方が主公を喜ばせるに違いない。”と彼は決心したと筆者は推測する。"まして魏には人材が綺羅星の如く居る。政治、軍事のいずれを見ても整然と統治されている事が人材の豊富さを証明している。乾坤一擲の大戦を仕掛けて一時的な勝ちを収めても、其の勝利を維持し、拡大する為の兵力も人材も我が国には不足している。まして、我が王朝の皇帝、劉禅は魏王朝の皇帝、曹叡に比べると帝王としての資質は劣る。自分の眼の黒い間は何とか為るとしても、居無くなればどうなるか判らない。最終的には敗北を喫する事は火を見るよりも明らかである。蜀や呉の国力では叶う相手ではない。”と孔明は現状を分析して兵力と国力を温存するという戦略を建てた。此の戦略に則って孔明は、三倍以上もの兵力を擁する敵と正面切って、五丈原の狭い台地を城塞化して十万の軍兵を容め、長期対峙作戦を挑むのである。魏延の進言を退け、博打的大勝負を避けて兵力の温存と国家の存続を計るという戦略に徹するのである。
  「三国演義」には魏の総帥、司馬懿が戦いを望まず、守備に徹して孔明の決戦の誘いを拒み続けたと記され、後の研究家達もその説に賛成する。しかし、全兵力を催して勝敗を決する会戦を避けたいと願っていたのは孔明で在ったと思う。「三国演義」の述べる所や定説は実際は逆で在ったと筆者は思う。此の説は筆者の独断と偏見による見方である。世の先生方から、孔明の勇気を侮る意見であるとお叱りを受けるかも知れない。
  自軍の整然とした軍事力を見せる事により、敵に蜀漢帝国を攻める意欲が削がれる事を狙ったとも考えられない事は無い。孔明の死後、撤退した蜀軍の陣営の跡を視察した司馬懿は、理に叶った独創的な陣営の縄張りや配置、攻守を兼ね備えた陣形、「八陣の陣」に感嘆して、"真に天下の奇才也。”と孔明を褒め称え、自ら小部隊を率いて蜀軍の退却を確認しただけで兵を引いたという。此の司馬懿の行動が有名な"死せる孔明、生ける仲達を走らす。”という司馬懿にとって不名誉な故事を残すのである。

  結局、孔明の此の大戦略が効を奏して蜀漢王朝は、孔明の死後も29年間存続し、同盟国の呉王朝も亡ぶ事無く三国鼎立の時代は続くのである。

  今から千八百年昔、"漢王朝を復興し、三国に分割されている全土を統一する。”という謳い文句を掲げて孔明は、北伐の軍を興して屡々、魏王朝に戦いを挑んだ。挑戦は前後五度に及ぶ。「五丈原の戦い」は孔明の北伐最後の戦いである。彼は此の戦いで、十万の精鋭部隊を率いて魏将、司馬懿が率いる二十万の迎撃軍と"五丈原”と呼ばれる狭い台地に陣を布いて対峙戦を展開するのである。魏軍は二十万の迎撃軍の外、長安に皇帝、曹叡が直率する十万の後備軍、併せて三十万もの軍勢を催して蜀の攻撃軍十万に備える。
  「元和郡県誌」という書物に次の様な記載がある。

 *、「五丈原は宝鶏県から南西に三十五里{古代1里は345m。35里は12Km前後}に所在する。諸葛亮が初めて魏の将軍司馬懿と対峙した時、渭水の南岸の原に陣を布いた。司馬懿が此の蜀軍の布陣を看て部下の諸将に話すには、"若し蜀軍がこのまま、武功に出、秦嶺山脈の山裾を伝って東に軍を向け、長安を目指して進軍を開始すれば、我が軍は危険にさらされるであろう。若し西に転進して五丈原に上って陣を布けば、数に優る我が軍が有利である。”と。果たして諸葛亮は五丈原に駐屯し、屯田をして食糧を確保して長期対峙の構えを見せた。其の軍には私事を働く者は無く、其処に住む居民達に安堵の感を与えた。」

  つまり、諸葛孔明は十万の軍勢を率いて魏の迎撃軍、総勢三十万に及ぶ大軍に対して、正々堂々と陣を布いて相対する戦法を採用したと謂うのである。屯田までして食糧の自給を計ったとも謂う。大兵力を集中させる会戦では火力の大きい方が有利である。当時は兵の寡多が軍の優劣を決める要因であった。寡勢が多勢に打ち勝ち、小勢が大勢を呑むには乾坤一擲の大勝負に賭ける何らかの奇策が必要である。つまり、孔明は心の底では、長安を攻める意思は持たなかったと謂う。

「孔明最期の戦い」ー完ー

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「人間諸葛孔明」の発見巻二(3)

「孔明の構造改革」
に続く。

「一下万上」から諸葛孔明の戦略を考察する

3.「孔明最期の戦い」 ー流星割落五丈原ー