「孔明の構造改革」巻一

「一枝の松」

1,国の建て直し(「一下万上」より)

ー1800年前の構造改革と経済政策ー

  当時は農本社会であった。農業が国の基本産業である。農業生産を上げて先ず、食い物を確保せねばならない。劉備と孔明が進出した前後の益州は、虐げられた農民は貧しく、生産意欲も上がらず、国家は疲弊し切った状態であった。 "益州は疲弊す、此れ誠に危急存亡の秋也。”(「出師の表」より)という情況であった。度重なる戦争が此を更に助長した。農業生産を上げて民衆の富を増やし、彼等に活力を付ける事が急務である。多少強引でも悪徳官吏を追放して地方豪族から既得権益を採り上げねばならない。"構造改革断行。”と孔明は考えた。 "務農殖谷,閉関息民”{農耕に務め穀物を増産し、国境を閉じ民を休ませる。}を第一政策に採用して国力回復に乗り出した。鎖国をして外からの圧力を排除し、国内に平和を取り戻すということで、戦争が起こる懼れを無くして民に安心感を与えて農業生産を上げる事に専念させたのである。
  農業生産を上げる事は簡単である。つまり耕地面積を増やす。労働力を増やす。灌漑を整備する。此の三点を確立すれば、生産力は上がる筈である。春秋時代の秦国が巴蜀を征服統治した時代、太守として赴任した水利の専門家李泳親子が都江堰という堰を築いて蜀を「沃野千里」と呼ばれる豊穣な地に変えた。しかし孔明の当時、堰はかなり荒れ果てていた。孔明は此の都江堰の整備を行う。担当官吏を任命し、その下に千二百人の堰管理員を置いて補修管理を徹底して更に延長工事を行った。此の治水事業を進める一方、低地の洪水地帯を農地に変える干拓事業、灌漑整備を行って農業生産を上げる政策を推し進めた。成都の西北の柏河に孔明が築いたと謂われる "諸葛堤”、或いは"金堤”と呼ばれる長堤が今も残っている。
  封建時代は兵士は農民から徴兵された。此は中国でも日本でも変わらない。兵士として徴用されると人手不足の農地の生産力は落ちる。此を解決するのが屯田兵制度である。兵士は平時には田畑を耕す。一朝事が起こると武器を持って戦闘に参加する。更に、屯田兵に荒れ地を開拓させて農地を増やした。因みに曹操は占領した地域に屯田兵を置いて勢力を拡大させたのである。
  戦争の起こる可能性が遠のいた時期だけに兵士を農耕作業に活用出来る。 "休士勧農 分兵屯田”をスローガンに、"兵農合一”政策を押し進めて労働力の確保を計る。農繁期には兵士が農業に従事する、或いは農作業に人的な補助を行って生産量を増やす。農閑期には農民が兵士として訓練を受けて兵力増強を計る。一石二鳥の効果が実現したのである。屯田兵制度の推進は、他方で富裕な地主や地方の豪族達の力を弱める効果をもたらした。農民も生産物の何割かを国家へ税納するだけで好く、自分の取り分が増える。豪族の下で小作をするよりも収入が増え、働く意欲が増加する。当然、生産量が上がる。という図式になったのである。
  孔明はこの様に、兵農合一政策と水利灌漑事業を展開して一挙に農業生産を向上させ、地方豪族の既得権益を取り上げ、賦税の軽減を計る等、農民の負担を軽くして彼等の生活を安定させた。当然、国庫の収入にも安定を来たす結果をもたらした。
  塩と鉄は益州の重要産品であった。経済発展には欠かす事が出来ない資源である。中国の奥地には塩分を含む地層が多い。蜀地方の精塩業は西漢王朝(前漢)の時には既に、発達していて各地に塩井が掘られていたという。製塩技術もかなり熟練していてある地方では已に、火井{天然ガス}を燃料に使用していたという。蜀地方の塩は"井塩”とも"煮塩”とも呼ばれ、井戸を堀って上部に滑車を備えた塔架を置き、塩水を汲みだして塩鍋に移して塩水を煮て水分を蒸発させて塩を採取した。此の井塩と同じ製法は "湖精塩”の名で日本でも売られている。恐らく "胡井塩”が元の名称であろう。筆者は此の湖精塩を使った料理を食べたことがあるが円やかな、柔らかい味が印象に残っている。海水から採る塩に比べて苦味、刺激するものが感じられなかった。モンゴル産と云うことであったが、製法は井塩と同じであろう。10mから20mの深さの井戸に湧き出す塩分濃度の高い塩水から水を蒸発させて塩を採るという簡単な精塩法であると聞いた。孔明時代の製塩方法とさほど変わらない。
  中国には各地に鉄鉱石の鉱山があって、露天掘りが今も行われている。此は孔明の時代も変わらない。蜀の周辺にも鉄鉱石が埋蔵されている山が彼方此方に在って兵器や農機具を鋳造していた事が多くの史書に記載されている。孔明は鋳鉄官に鋳鉄技術に精通した者を選んで兵器や農機具の品質改良を目指した。鋳鉄官の郭達は一夜に三千本の箭を打ち、"神手”と称されて将軍に封じられたという。鋭利な兵器の改良は軍の強化に貢献し、製鉄技術の発達は農機具に改良が加えられて農業生産の増強に大いに役立つ事になる。今も昔も軍事技術の発達が一般の生活機器の改善に繋がる事に変わりがなかった。
  鉄に限らず金、銀、錫等の鉱山も開発されて蜀漢王朝の重要輸出産品と為り、国庫を潤した。錫は今でも四川省に多く産出している。朱堤に産出する銀は純度が高く、他地方で産出する銀に比べて1.8倍の高値で買い取られたという。孔明は精塩工業や製鉄工業に対して国家管理機構を設立して「司塩校尉」、「司金中郎将」の職を設けてこれらの資源を国家の独占事業とした。
  蜀錦の名で有名な蜀のシルク工業は早くから、此の地方に発達していた。東漢時代(後漢)の墳墓から桑苑の図や織機の石刻が発見され、漢の時代には一般的にシルク工業が普及していた事が判る。彼は蜀錦の重要性に着目をし、特別に「錦官」という官庁を設置して専門にシルク工業を管理させた。成都の別名「錦官城」は此処から来る。「臨終の表」には、彼の家には八百株の桑の木が植えられていると彼自身が述べている。「後漢書」には曹操が "人を派遣して蜀錦を買い求め、宮中の礼服に用いた。”という記載がある。当時、蜀錦は全国に知られた特産品で、蜀の経済立て直しの切り札となった。孔明の書簡にも次の様に記載されている。

 *、"今民は貧しく国力は虚弱である。敵との戦いで勝ちを決する源資は、惟だ蜀錦に仰ぐのみ。”

  又、貨幣の鋳造も手がけ、"官市”という市場を設立して専任官吏を派遣し、徹底した市場価格への介入を行って諸物価の安定を計った。湖北省や雲南省で孔明の発行した"直百銭”の銭弊が見付かっている。この様に農業生産の向上、塩、鉄,錦等の資源、特産品の発達は蜀の経済発展に大きな寄与をした。銭弊の発行と徹底した市場価格の管理によって物価が安定して戦乱に疲れ果てていた蜀の経済を建て直した。
  "政は民を安んずるを以て本と為す。”という孔明の基本思想が諸政策に反映された結果、構造改革は三年で成功裏に終わって、蜀漢国は "食足りて兵足る。”という安定さと富裕さを得るのである。
  一方統治では、徹底した法令厳守、信賞必罰を旨とした法治主義政策を施行して長期の馴れ合い政治に染まりきっていた益州の惰弱した富豪、官吏に臨んだ。彼等の私利益はそのまま国家の府庫に影響し、民衆の生活に反映され、国力に悪影響を及ぼす。上記の経済建て直しの実現の為にも避けて通る事が出来ない問題であった。此の当時、"罰は三世に及ぶ。”とされ、罪を犯せば一族全員が処罰されるのが当たり前の事であった。ところが、孔明は賞罰を厳粛に執り行ったが、加罰は罪を犯した本人に限り、家族は罰しなかった。権威や地位に囚われず厳粛に執り行った。悔い改める機会を与えたという。決して感情に左右される事は無かった。今日では当然の事であるが、当時は画期的な事であった。彼の書簡に彼の姿勢が述べられている。

 *、"我が心は秤に似て、誰に対するも公平也。此を重く、彼を軽く為すは無し。”

  更に、孔明は人材育成にも力を尽くしている。成都に最高学府の大学を開設して蜀漢国の次代を担う若者の育成を行ったのである。古文、経学、儒家の経典を主要過程とし、他に天文学、史学等を学ばせた。「三国志」の作者で大史家の陳寿も此の大学に学んだという。孔明自身も天文、兵法、古今のあらゆる学問に通じていた。面白いのは、孔明が彼の著書「便宜十六策」で、”国家の大学に学んだ者を官吏に登用しては為らない。”と説いている事である。つまり、”東大卒は官僚にするな。”と言うのである。”国家の大学に学ぶエリートは党派を作り、貧しい人々を侮蔑する。”のが理由である。彼は民間に隠れている賢人を尊敬していた。
  孔明が著したとされる兵法書「便宜十六策」と「将苑」は今の社会に充分過ぎるほど当てはまる。時代が移ろうとも、人間は進歩をしていないのか、孔明の考え方が普遍なのかは判らない。
  当時は現在のように三権分立は無く、皇帝が絶対的な権限を持つ中央集権政治が行われていた。孔明は構造改革を徹底し易かったであろう。しかし、絶対的な権限を持ち合わせない彼が、構造改革を推し進める為には厳粛な法令の執行に頼らざるを得なかったとも言える。此の中央集権が崩れた時、つまり中央の権威が崩れて地方政権が強くなったとき、或いは統治が行き当たらなくなった時に国が乱れ、民の苦しみが始まる。中央の力、権威の維持が国の安定に欠かせない前提であった。
  そんな中にあっても、孔明に反対した人もいたであろう。彼は厳しく法令を執行して官吏の意識を変え、民間の人徳ある人を積極的に登用して民衆を救い、彼に従う抵抗勢力の人々をも政権に参加させて経済政策を推し進め、疲弊しきった国を短期間で建て直すのである。彼はリストラを推進しただろうか?失業者やホームレスを街に溢れさせただろうか?
  若し可能なれば、日本の指導者はステイーブン ホーキング博士の謂う "時空のチューブ”{ワームホール}を通って1800年を遡り、孔明に会って直接教えを請うと好いと思う。
                             2004年5月5日「一下万上」より

  「赤壁の戦い」に呉の孫権軍団との同盟を得て勝利した劉備軍団は、天下の帰趨を左右する戦略的要地荊州の大半を傘下に抑え、孔明の「三国鼎立」戦略に則った巴蜀占領をも成功させる。更に、魏の曹操軍団との決戦に勝利を掌中にする為の拠点作りつまり、益州(巴蜀)を完全に我がものとする事と、戦乱に荒れ果てた此の地を豊かな地に変える事が劉備軍団の参謀長で在る孔明に課せられた急務であった。
  占領当時の益州は、前支配者劉璋の暗愚で惰弱な支配によって官僚組織はまともに機能を果たされず、民衆の貧しさは目を覆うばかりの状況に在った。更に、官僚と結び付いた地主が肥え太る。弱い者は益々悲惨になるという状況下に在った。
  圧倒的な武力を以て益州を占領し、圧倒的な権力を持った政治支配で国を建て直そうとした孔明でさえ、構造改革には苦労する。富裕豪族である抵抗勢力を根絶やしにする事は難しかったのである。三年もの時間が必要であった。
  孔明は先ず、一時的に国境を閉ざして鎖国状態にする。外圧を除いてから国内の生産力を回復させ、経済を復興させて物価の安定を計る。国民に活気を取り戻させ、生活を安定させた。其の上で行政改革を行う。思い切った人材の登用、権力者や悪徳官吏の黜除、行政組織の簡素化等の施策を次々と打って、行政改革を徹底的に断行したのである。

孔明の構造改革2
続く

「孔明の構造改革」ー完ー
2007年6月19日
在、遊蜘窟閑叔亭