"七度孟獲を擒にする。”という故事は "心を攻める”作戦つまり、南夷人に対する孔明の徹底した慰撫の成功を物語るものである。曲靖付近の孔明に纏わる沢山の遺跡や雲南省各地は言うに及ばず、カンボジアやタイに至る広範囲に残る "七度孟獲を擒にする”に関する遺跡の存在は孔明の "心を攻めて兵を攻めず”という政策が被征服民族にとって如何に、歓迎して捉えられていたかを物語るものであろう。彼の慰撫政策が共存共栄の理想像として征服者,被征服者を問わず、あらゆる民族に歓迎されたかということである。
  彼の持ち込んだ中原の先進農業技術も南夷人達に歓迎され、南夷人の生活の安定に大きな効果をもたらした。しかし、大成功の陰には遠征軍にとって大変な労苦があったことは議論の余地がない。春三月に成都を出発し、秋七月に作戦を終了する。夏の酷暑の未開の地に於ける作戦である。食中毒や水当たり、疫病等の辛苦は大変なものがあった。曲靖付近に孔明が刀で彫りつけたと伝えられる "毒水”の石碑が此の苦労を物語る。

  孔明の「南征」終了後の異民族に対する慰撫政策は見事というより現代にも通じる、 "兵を留めず、食糧を運ばず”を基本政策として、軍を駐留させない統治には "其の首領を之に用うる”事を旨として自治権を与え、異民族と漢民族の融和に努力をした。その為に先ず、中央政府の制御が及びやすい行政区を設計した。彼等を統治する行政官の人選にも考慮した。南征作戦の司令を務めて南夷人の信望を厚く得る馬忠や李恢を派遣する。更に府城を味県、今の曲靖に置いて郡県制を布き、中央政府による行政官の監視を強化し、地方官の不正や少数民族の不満の発生を防止する。派遣された行政官達は孔明の意を含んで諸民族の宗教や文化を尊重し、南夷人の慰撫に心を配る統治を行った。
  民族同化策として夷漢同和政策を採り、族長や戦士を成都に招いて官吏や将として採用し、彼等を中央政府に組み入れた。叛乱軍の首謀者、孟獲も後に孔明の重要なブレーンに加わる。更に、漢代に行われていた部曲制度を復活して此の地にも屯田制を推し進め、部落の戦士を地方の行政体型に組み入れて平時は農耕、戦時は兵役の義務を課した。南夷人で一軍を編成して "飛軍”と命名した。此の軍は後に孔明の対魏戦線では最精鋭部隊の一つとしてずば抜けた活躍をする。南夷軍の編成は部落中心に行ったが、少数の部落出身戦士は漢人と混合部隊を組織して "夷漢部曲”と称した。此が夷漢融合に役立つ事になる。此の様な異民族と漢族との同化政策や夷漢部曲の編成は、蜀漢軍の強化にも役立った。

  経済面では農業生産を向上させる為に水利事業、灌漑事業を押し進め、人力農耕を牛力農耕に変える等、中原の技術を導入して生産効果を上げた。雲南省に孔明が築いたといわれる堰が残る。
  更に、南中地区の鉱業、商業の発展を重視して塩鉄官を派遣し、塩井や鉱山を開発させ、生産を管理させる一方、橦華布{橦華の花を紡いだ布}や丹漆等の特産品の育成と増産を計った。金や銀、銅、錫、鉄等の増産にも力を注いで当地区に独立経済基盤を作り、彼等に自立の道を与えたので在る。
  雲南地区の少数民族の中には今でも、孔明を親しみを込めて "孔明老爺”(孔明爺さん)と呼び、銅鼓を諸葛鼓と称し、懿族が被る帽子 "編竹蘿”は孔明が教えたものと伝えられる。或る史書には”当地の人々が常食していた青菁を軍用食糧に採用して後に、人々は此を諸葛菜と称した”と記されている。此等の逸話は孔明の名が好意を以て受け入れられ、彼が当地区に残した恩恵の大きさを物語る。がしかし、残念ながら時代が下るに従って、後の行政官達は当初の孔明の南夷統治理念を忘れ、南夷人達の経済基盤を剥奪する事が多かった。「華陽国誌」には "南中地区に産出される金、銀、丹漆、農耕牛、戦馬等が、絶えず成都に運ばれ、軍や国家に用いられた”と直接、南夷人の生活に圧迫を加えていたことが述べられている。

  孔明の南西地区への貢献が後に、彼に纏わる種々の伝説を生み、数々の遺跡を残すのである。此処に視る孔明の占領地区への経済貢献、漢夷融合政策、異民族の文化や宗教の尊重、人種差別の撤廃等の統治政策は現代の我々にも大きな教訓を示すものである。寧ろ今、我々が学ばねばならない点が多い。
  特に、最近の中国各自治区に於ける民族独立運動、漢族との差別を訴える運動や暴動は周近平政権、共産党政権に大きな問題を投げかけるが、千八百年昔に既に、孔明等の古の為政者等が経験し,解決を模索した問題で在る。清朝の乾隆帝の理想(漢満西蔵同一政策つまり、漢族と満州族、チベット族等異民族の融合)を思いだし或いは、孔明等の異民族統治の原点に立ち返って再度、民族融合或いは、民族自治を見直すべきである。

  いずれにせよ、孔明の「南征」は南夷人の心を掴み、民族団結の基本理念と人種差別の撤廃の思想を残して、成功裏に終わる。そして、いよいよ「北伐」へと、孔明最後の大勝負へと舞台は展開するのである。

    孔明の南征を考察する(民族紛争)ー完ー
                        

「屁放き老師三国志に遊ぶ」孔明篇

  建興三年(公元二二五年)春、曹丕の孫権攻めを確認した孔明は、諸臣が彼の身を案じて諫めるのを振り切って三月、軍を東路、中路、西路の三路に分け、自らは主力軍の西路軍を率いて南下を開始した。「出師の表」に読む、"・・・・・。五月、瀘水を渡り、深く不毛の地に分け入る。・・・”である。此の作戦は、後に第一次北伐で彼に屈辱の敗戦を蒙らせる馬謖の進言による"攻心為上、攻城為下”{心を攻めるを上策とし、兵を攻めるを下策とする}作戦であった。つまり、軍事制圧が目的でなく、安撫を主目的にして南夷の叛乱の基本的な解決を狙ったので在る。
  東路軍は馬忠を司令に、牂牁
(今の貴州省遵義市)から南下し、中路軍は李恢が司令を務めて益州郡(今の雲南省昆明付近)の反乱軍を鎮圧する。主将の孔明は安上を経て越嶲郡に進攻した。反乱軍は蜀漢軍の進攻の前に分裂を起こし、東路軍と中路軍は安撫工作を順調に展開した。反乱の首謀者が相次いで死去して、孟獲の孤軍奮闘となる。五月、廬水の南、滇池付近で三軍が集結、孟獲と "七度孟獲を擒にし、七度放つ。”の故事に譬えられる戦いを経て、孟獲の言葉 "公は天威なり、南人復た背かず。”によって南征の作戦は終結する。

「屁放き老師「三国志に遊ぶ」孔明篇表紙
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巻四の4

孔明の南征を考察する(民族紛争巻二)

公は天威也、南人復背かず!