筆者が、或る書舗で「三国演義」と云う明代に書かれた小説を見付けた事が、諸葛孔明に出遭った最初で在った。中日辞典を捲り乍ら、検眼鏡を手に読み始めた。”あれ!今接する三国志は全て、「三国演義」の亜流では無いか”と気が付いた。”大作家だよ!と偉そうな顔をしても、「三国演義」を写しただけじゃ無いか”と言いたい。
でも、ちょっと気に為るのが孔明である。”彼が遣る事、為す事当たらざるは無し。敵味方全ての人々の心の中まで見通し、戦いに在っては戦略戦術、失敗せざるは無し。未来までをも見通す正に、神の如き存在である”。こんな神様にも敵する人物が率いる国家が何故、天下統一を出来ず、「魏王朝」の辺境を騒がせただけに終わったのか?登場人物全てが、彼を引き立てるだけの存在なので在ろう?等々・・・様々な疑問が浮かび上がる。偏屈な、穿った見方しか出来ない爺さんだけに許される疑問に過ぎないので在ろうか?
”好し、孔明を調べて遣ろう。本当に孔明が神の如き人物だったのか?そうで無ければ、彼自身が今に伝えられる様な、神の如き存在として後世に伝えられる事を欲したので在ろうか??また、曹操にしても今に伝えられる悪辣非道其の者の姿が、本当の彼だったのか??
斯くして、屁放き爺さんの三国志翻訳研究が始まり、孔明や曹操の真の像、千八百年の間に書き換えられた二人の真の姿を求める旅立ちと為るので在る。
「屁放き老師三国志に遊ぶ」孔明篇
ー三国志翻訳研究より「孔明夜話」ー
小説「三国演義」で孔明に出遭う
「孔明夜話」リンク先