第五回目の北伐、「五丈原の戦い」を興した時、孔明は既に国内の権力闘争を乗り切って、彼の政策に反対する勢力は力を失っていた。また、彼が育て上げた第二世代、後継者達への権力委譲も無事に終えて、自身の亡き後の蜀漢王朝の前途には何も思い残す事は無く為っていた。今は居ない旧主、劉備との約束事の内で孔明に残されたものは、魏の皇権簒奪によって亡んだ漢王朝の復興と、漢王朝の後継を自負する蜀漢王朝による中国全土の統一を成し遂げる事だけであった。魏軍を完膚無きまでに叩きのめす事だけであった。しかし、魏王朝は中国の其れも、中原を含む六割の地域を統べ、人口比率でも七割を占めている。而も強固な政権の運営を行っている。兵力は蜀を何倍も凌駕している。三国の内のもう一つの国家、呉王朝とは同盟を結んでいるが、呉と蜀二国の兵力を併せても魏王朝の軍事力には遙かに及ばない。
実際に此の時期、魏の東部戦線では孔明の五丈原への出陣に呼応して呉の皇帝、孫権は自ら十万の兵を率いて合肥を囲み、別働隊の孔明の兄、諸葛瑾と名将、陸遜は荊州から北進して襄陽に兵を進めていた。しかし、合肥救援に駆け付けた魏の歴戦の勇将、満寵に主力軍の孫権が大敗して呉軍は兵を引く。当然、東部戦線の魏兵、三十万が西部戦線の蜀軍に振り向けられるであろう。蜀軍は直接、対峙している司馬懿の二十万と長安に待機する十万の後備軍、其れに加えて東部戦線から振り向けられるで在ろう大軍とも戦わねばならない。とても会戦どころではないと孔明は考えた。
常識的に考えれば、会戦では火力の大きい方が勝つ。此の時代の火力は兵の数に比例する事は前に記した。当然、兵力の大きい方が有利である。弱が強を打つ場合は何らかの冒険が必要である。しかし、負ければ元も子も失って軍は壊滅、王朝は滅亡ということになる。"魏を滅ぼして天下統一を果たす等、とても出来る相談ではない。寧ろ、蜀漢王朝が滅ぼされる可能性の方が大きい”と孔明は考えた。"三国が鼎立して互いに、牽制をし合っている現状の維持を計ろう。五度も北伐軍を興した事で今は亡き主公、劉備との約束は果たされたし、懸命の努力をした忠義さは今の世にも、後世にも認められるだろう。王朝の存続を第一に考えよう。一か八かの大勝負をし賭けて国を滅ぼすよりも、兵力を温存させた儘、国を残す方が主公を喜ばせるに違いない”と彼は決心したと筆者は推測する。"まして魏には人材が綺羅星の如く居る。政治、軍事のいずれを見ても整然と統治されている事が人材の豊富さを証明している。乾坤一擲の大戦を仕掛けて一時的な勝ちを収めても、其の勝利を維持し、勝利を更に拡大して戦果を挙げる為の兵力も、人材も我が国には不足している。まして、我が王朝の皇帝、劉禅は魏王朝の皇帝、曹叡に比べると帝王としての資質は劣る。自分の眼の黒い間は何とか為るとしても、居無くなればどうなるか判らない。最終的には敗北を喫する事は火を見るよりも明らかである。蜀や呉の国力では叶う相手ではない”と孔明は現状を分析して兵力と国力を温存するという戦略を建てた。此の戦略に則って孔明は、三倍以上もの兵力を擁する敵と正面切って、五丈原の狭い台地を城塞化して十万の軍兵を容め、長期対峙作戦を挑むのである。魏延の進言を退け、博打的大勝負を避けて兵力の温存と国家の存続を計るという大戦略に徹するのである。
「三国演義」には魏の総帥、司馬懿が戦いを望まず、守備に徹して孔明の決戦の誘いを拒み続けたと記され、後の研究家達もその説に賛成する。しかし、全兵力を催して勝敗を決する会戦を避けたいと願っていたのは孔明で在ったのでは無いかと思う。「三国演義」の述べる所や定説は実際は逆で在ったと筆者は確信するが、此の説は筆者の独断と偏見による見方である。世の先生方から、孔明の勇気を侮る軽薄な発言であるとお叱りを受けるかも知れない。しかし、筆者は思う・・・・。
自軍の整然とした軍事力を見せる事により、敵に蜀漢帝国を攻める意欲が削がれる事を狙ったと考えられない事は無い。実際孔明の死後、撤退した蜀軍の陣営の跡を視察した司馬懿は、”理に叶った独創的な陣営の縄張りや配置、攻守を兼ね備えた”陣形、「八陣の陣」に感嘆して、"真に天下の奇才也”と孔明を褒め称え、自ら小部隊を率いて蜀軍の退却を確認しただけで兵を引いたという。
此の司馬懿の行動が有名な"死せる孔明、生ける仲達を走らす”という司馬懿にとって不名誉この上無き故事を残す事に為るので在る。
結局、孔明の此の「五丈原に於ける対峙作戦、蜀漢王朝を残さんとする大戦略」が効を奏して蜀漢王朝は、孔明の死後も29年間存続し、同盟国の呉王朝も亡ぶ事無く、三国鼎立の時代は続くのである。
「武侯・諸葛孔明の戦略戦術」研究の篇、−完ー
「屁放き老師三国志に遊ぶ」孔明篇
巻三の4
武侯・諸葛亮の戦略戦術第四篇
孔明最後の戦い(巻二)ー流星割落五丈原ー
此の「五丈原の戦い」について「三国演義」は述べ、後世の小説や研究書の多くは、「三国演義」の説に追随をして”司馬懿が孔明の度々の会戦の誘いを無視し、持久戦を続けた”と述べる。しかし、会戦による雌雄を決する事に躊躇したのは寧ろ、孔明では無かったか??と筆者は想像する。其れは・・・。
曹操(魏)、孫権(呉)、劉備(蜀)の各軍閥による中国統一の戦つまり、三覇の時代を開いた「赤壁の戦い」の後、孔明は劉備軍団のナンバー2として常に、軍行動の指導や占領地区の統治に当たり、劉備軍団の成長と共に三国志の表舞台に躍り出た。劉備軍団は終には、巴蜀を占領して足場を堅め、魏や呉に比べると国力では見劣りはするものの、三国の一角を占める蜀漢帝国を建国する。蜀漢王朝の丞相の地位に在った孔明は軍団の主催者、劉備の死後、劉備の息子劉禅を皇帝に戴いて蜀漢王朝の全権を掌握する。蜀漢帝国の政治や経済、法の執行等の全て、更に軍事迄もが彼の才覚に委ねらた。此の事によって国家の繁栄と存亡という大命題が彼の肩に懸かって来た。王朝の安泰のみならず、巴蜀更には南や西の少数民族に到るまで、当地に住む民衆の生活迄もが彼一人の肩に重くのし掛かって来たのである。
人間の寿命には限りがある。彼はこの時既に、胃を病んでいて長く生きられない事を自覚していた。胃潰瘍か胃癌であろう。自分の死後も国家を存続させなければならない。国民に「安居楽業」つまり、安心して暮らし、生業を楽しませて国の繁栄を計らねばならない。