「屁放き老師三国志に遊ぶ」孔明篇
「三国志」を著した陳寿は、其の書中の「諸葛亮伝」に記載する。"孔明は管仲、蕭何に匹敵し、其れに優るも韓信、楽毅に及ばず”と。つまり、孔明は”治世には優れていたが、戦いは得手とはしなかった”と言う。此れは此のHPシリーズ「武侯・諸葛孔明の戦い」欄でも述べた。他の史家達の研究書ににも、”治世や戦略家としては伊尹や呂望に匹敵する”と述べる。此れも既に、述べたが、孔明は国家を造り上げ、国家を治める事に秀でた点が強調する。伊尹は湯王を補佐して夏王朝の末王傑を滅ぼして商王朝を建て、呂望は周王朝の武王の建国を輔けた名軍師で在る。劉備孔明の天敵とも云うべき曹操の参謀達からも”孔明の治国は明るき”と彼の国造りが賞賛された。つまり、弱小国を立て直し、二国の大国と対等の死闘を演ずるまでの国に育て上げた治国手腕が讃えられるので在る。
「赤壁の戦い」に呉の孫権軍団との同盟を得て勝利した劉備軍団は、天下の帰趨を左右する戦略的要地荊州の大半を傘下に抑え、巴蜀占領をも成功させる。更に、大国魏王朝との決戦に備えた拠点造りつまり、益州(巴蜀)を完全に我がものとする事と、戦乱に荒れ果てた此の地を豊かな地に変える事が劉備軍団の参謀長で在る孔明に課せられた急務であった。
千八百年昔の構造改革と経済政策
巻四の1
”武侯・諸葛孔明の治国と国造り”第一篇
劉備軍団が占領した当初の益州は、前支配者劉璋の暗愚で惰弱な支配によって官僚組織はまともに機能を果たされず、民衆の貧しさは目を覆うばかりで在った。官僚と結び付いた地主が肥え太る。弱い者は益々悲惨になるという状況下に在った。武力を以て益州を占領し、権力を持った政治支配、国を建て直そうとした孔明でさえ、富裕豪族である抵抗勢力を根絶やしにする事は難しかった。三年もの時間が必要であった。
孔明は先ず、一時的に国境を閉ざして鎖国状態にした。外圧を除いて国内の生産力を回復させ、経済を復興させて物価の安定を計る。国民に活気を取り戻させ、生活を安定させた。其の上で行政改革を行う。思い切った人材の登用、悪徳官吏の黜除、行政組織の簡素化等の施策を次々と断行したのである。
当時は農本社会で、農業が国の基本産業である。農業生産を上げて、食い物を確保せねば為らない。孔明が構造改革に乗り出した前後の益州は農民は貧しく、生産意欲も上がらず、国家は疲弊し切った状態であった。"益州は疲弊す、此れ誠に危急存亡の秋也”(「出師の表」より)という情況であった。度重なる戦争が其の状況を更に助長した。農業生産を上げて民衆の富を増やし、彼等に活力を付ける事が急務である。多少強引でも悪徳官吏を追放し、地方豪族から既得権益を採り上げねばならない。"構造改革断行”と孔明は考えた。 "務農殖谷,閉関息民”{農耕に務め穀物を増産し、国境を閉じ民を休ませる}を第一政策に採用して国力回復に乗り出す。鎖国をして外からの圧力を排除し、国内に平和を取り戻す事で、戦争が起こる懼れを無くして民に安心感を与え、農業に専念させた。農業生産を上げる事は簡単である。耕地面積を増やす。労働力を増やす。灌漑を整備する。此の三点を充実させれば、生産は上がる筈である。
春秋時代の秦国が巴蜀を征服統治した時代、太守として赴任した水利の専門家李泳親子が都江堰を築いて蜀を「沃野千里」と呼ばれる豊穣な地に変えた。しかし、孔明の当時、堰は荒れ果てていた。孔明は都江堰の整備を行う。担当官吏を任命し、その下に千二百人の堰管理員を置いて補修管理を徹底し更に、延長工事を行った。治水事業を進める一方、低地の洪水地帯を農地に変える干拓事業、灌漑整備を行って農業生産を上げる政策を推し進めた。成都の西北の柏河に孔明が築いた
"諸葛堤”、"金堤”と呼ばれる堤が今も残る。
封建時代、兵士は農民から徴兵された。此は中国でも日本でも変わらない。兵士として徴用されると人手不足の農地の生産力は落ちる。此を解決するのが屯田兵制度である。兵士は平時には田畑を耕す。一朝事が起こると武器を持って戦闘に参加する。更に、屯田兵に荒れ地を開拓させて農地を増やした。因みに曹操は占領した地域に屯田兵を置いて勢力を拡大させ、袁紹を滅ぼし、劉表に勝った。
戦争の起こる可能性が遠のいた時期だけに兵士を農耕作業に活用出来る。 "休士勧農 分兵屯田”をスローガンに、"兵農合一”政策を押し進めて労働力を確保し、農地を増やした。農繁期には兵士が農業に従事或いは、農作業に人的な補助を行って生産量を増やす。農閑期には農民が兵士として訓練を受けて兵力増強を計る。一石二鳥の効果が実現した。屯田兵制度の推進は、他方で富裕な地主や地方の豪族達の力を弱める効果をもたらした。農民も生産物の何割かを国家へ税納するだけで好く、自分の取り分が増える。豪族の下で小作をするよりも収入が増え、働く意欲が増加する。当然、生産量が上がる。という図式になった。
孔明はこの様に、兵農合一政策と水利灌漑事業を展開して一挙に農業生産を向上させ、地方豪族の既得権益を取り上げ、賦税の軽減を計る等、農民の負担を軽くして彼等の生活を安定させた。当然、国庫の収入にも安定を来たす結果をもたらした。
以下、「千八百年昔の構造改革」第二篇に続く。、