今回の作戦は此までの祁山に進出して背後を固め、秦嶺山脈の北麓を通る天水街道を経て、中原に出るという迂回作戦ではなく、秦嶺山脈を蜀の桟道で貫いて北上する褒斜街道を通り、関中平野に直接進出して魏の首都、長安を攻略して魏王朝と雌雄を決しようという大規模な作戦計画である。
  此の時期の孔明は、其れまでの戦いが屡々、失敗に終わらざるを得なかった諸問題の原因を先ず取り除こうとして多忙であった。彼は"木牛”と"流馬”という物資の輸送機器を充実させ、輸送訓練を行う等の輸送問題の解決を計り、屯田を押し進めて大規模な開拓事業を展開して食糧を確保して "斜谷邸閣”と名付けられた巨大な倉庫に食糧を備蓄して進撃軍の食糧不足の解決を計る。更に、軍事教練を行って兵の強化に勉めて、兵軍の戦闘力を強化させた。此等の政策を実行する一方、同盟関係に在る呉国の皇帝孫権に使者を送り、時期を同じくして魏討伐の北上軍の派遣を依頼して同意を得て長安攻略の為の体制を築きつつあった。孔明は此の年の年齢は五十二才、未だ未だ元気旺盛な年齢である。此等の北伐準備の話は此の篇の主題には余り関係が無い。孔明の多忙について喋りたかっただけである。
  男は仕事が忙しい時に往々にして、充実感を得る。孔明も元老派との権力闘争を切り抜け、彼を崇拝する後継者達へ権力委譲も無事に終えて生涯で最も充実した人生を謳歌していた時期に在った。仕事の傍ら、子作りにも励んだ。此の年、二人の女の子をもうけている。諸葛懐と諸葛果である。彼女達の母御は多分、漢中の有力者の娘達であったと思われる。何かと人の目に付きやすい成都から離れていた事で孔明もふと、女が欲しくなってもおかしくはない。まして、怖い女房の目に付き難い出張先での事である。男は何歳になっても色心が消えないということであろうか。筆者も頑張らねば・・・・・。

  中国語に「陪嫁」という言葉がある。"ベイジヤ”と発音して花嫁道具、花嫁衣装の意味を表す。しかし、古代には違う意味で使われていた。貴人が嫁を娶る時、其の嫁に子供が出来ない場合に備えて嫁の一族から別の娘が一人、附けられる習慣が有った。多くの場合、妹が此の役を買わされた。つまり、姉妹共に嫁ぐのである。中国の古典には此の習慣に就いての記載を多く読む事が出来る。日本でも此の様な風習が貴人の間には行われていた事を知ることが出来る。大海人皇子{後の天武天皇}には天智天皇の二人の娘、太田皇女と彼女の妹の鸕野皇女つまり、鸕野讃良{後の持統天皇}が嫁いでいた。天武天皇と太田皇女の死後、自らの血統を継がせる為に鸕野皇女が天皇位に即位する。大いなる権力を有して明日香の宮に君臨した女帝・持統天皇である。
  封建社会には、貴人が旅先に留まると其処で夫人を娶る習慣があった。土地の豪族や氏族の族長が、自らの家の権威を高めようと、貴人との血縁を得る為に娘達を嫁がせたのである。日本でも貴人が旅先で宿を取った場合、娘を夜伽に差し出して身の回りの世話をさせる習慣が行われていた事が好く知られている。今の男女同権社会では想像も出来ないような風習であるが、男尊女卑の封建時代、男系の血の継続が重視され、女系は認められなかった時代である。今日本では男系、女系の天皇位の継続が話題に上っている。男系支持者は皇位二千年の伝統を守るとべし、と主張をされているが、封建制の伝統を守ろうと言うのであろうか?人々の時代を把握する意識が大きく移っていることを認識されておられのか?筆者の様な単純な頭脳には理解し難い主張である。余談が過ぎた。

  諸葛懐と諸葛果の母御達は、此の陪嫁の風習に従って孔明の身辺に侍らされた姉妹であったと想像する。彼女等は此の二年後、夫の孔明の死に遭遇する。幸いにも夫の墓陵は彼女たちの居た漢中の定軍山に設けられた。墓が近いだけに、深い悲しみが常に彼女達を襲ったであろう。後に、孔明の正妻、黄正英が此の墓陵に追葬される。彼女達も孔明の墓陵の近くに埋葬されたのあろうか。彼女たちと子供達の消息を伝えるものは何も残されていない。しかし、蜀漢王朝の第一の功労者である孔明に纏わる者として、彼女達が粗末な扱いを受けたとは考えられない。
  孔明が都の成都でなく、鄙びた漢中の更に、片田舎の定軍山に葬られる事を遺言したのは、"遺骸に為ろうとも、対魏作戦の最前線に在って蜀漢王朝を守る。”という孔明の忠誠の心と、"魏を睨み続ける。”という「復漢」の決意を表すものであるという見方が定説に為っている。しかし、孔明自身は、漢中の此の姉妹に対する愛が深く、彼女達から離れ難たかっただけかも知れない。最晩年に、もうけた二人の娘への不憫さから漢中を去り得なかったのかも知れない。若しそうとすれば、真面目一徹と伝えられている孔明の人生に血の通った人間味溢れる、従来の孔明と違った孔明を見い出す事が出来て嬉しくなるが如何なものであろうか。不届き者と叱られそうであるが、筆者は人間味溢れる暖かい心を持った孔明の方が好きである。彼女達の様な、歴史の表舞台に登場しない陰の歴史、特にか弱い女性の哀しい故事に大いに興味をそそられるのである。わざわざ "武侯の愛した美人姉妹”と題して此のページを付け加えたのは筆者の女好きの性格、恋に対する憧れに因るものである。

  "流星割落五丈原”と後世、謡われた孔明の壮絶なる臨終を迎える事になる建興十四年、公元234年の二年前つまり、建興十二年の事である。此の年から翌年、孔明は魏王朝との最後の戦いに臨むべく、前線司令部を設けて大軍を駐留させている蜀漢帝国の北辺、漢中に居て、最後の北伐作戦の準備に多忙な時期に在った。
  漢中{今の陜西省漢中市}は蜀漢王朝の都成都からは大巴山脈、魏王朝の首都長安からは秦嶺山脈という二つの山脈、更に山々を貫いて縫う細い街道、険しい谷の崖に架けられた「蜀の桟道」と呼ばれる橋道で隔てられた地である。しかし、蜀から中原に進出しようとしても、長安から蜀に進むにも必ず通過せねば為らない戦略的要衝である。此の年の十三年前つまり、建安二十四年、前の年に巴蜀を攻め取って足場を固め、中原進出の足掛かりを築こうと此の地に進出してきた劉備軍団と一足先に、此の地を占拠していた張魯教団を破って占領し更に、余勢を駆って劉備軍団を破って巴蜀を手に入れ、長江を下って呉王朝を攻めて一挙に天下統一をしようと目論む曹操とが直接、定軍山に大軍を対峙させて此の地を奪い合おうと壮絶な死闘を一年間、演じた事実を見ても漢中が如何に重要な戦略位置を占めていたかが伺える。

  孔明が愛した姉妹や二人の娘達のその後が大いに気になる所である。孔明が逝去した後も、彼女達は孔明が遺して呉れた威光によって安楽な人生を送ったと想像される。
  ダーリンの葬列を見送って二十九年後、彼女達の爸々が建てた蜀漢王朝が滅ぼされ、更に晋王朝によって三つの国に分裂していた中国が再び統一されて一つの国になるという激動の時代が彼女達を襲うのである。未だ此の時代には、諸葛懐と諸葛果の異母姉妹も彼女達の媽々姉妹も生存していたと思われるが、彼女達に纏わる言い伝えは記録に見る事が出来ない。恐らく、彼女達は中国の片隅の漢中の田舎で、息を潜めて世の移り変わりを眺めていただけであったと思われる。
  陜西省の漢中市周辺には彼女達、二代に渡る姉妹、従妹に纏わる言い伝えが今も、残されているかも知れない。機会が有れば是非とも一度、訪ねたい所である。
                                        

「孔明の愛した美人姉妹」ー完ー     2003年10月24日
  在遊蜘窟・閑叔亭

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武侯の愛した美人姉妹