「懐孫夫人」
江水滔々故事話 英杰美麗生浪花
贏輸征敗悲喜恋 都如刹泡不久住
          白文題

「荊州奪還作戦」ー劉備
 の東征ー
に続く。

関羽軍の北進と「赤兎馬」ー完ー

  関羽の北進は明代の小説「三国演義」や「三国志」に纏わる小説や後世の研究では、独断作戦である様に書かれている。だが、此だけの大作戦、劉備軍の総力を挙げた戦である事を考えると、成都の大本営で作戦全般の指揮を行っていた孔明の戦略に則ったか、或いは劉備の許可無くしては考えられない。確かに関羽の北進は漢中作戦には戦略的に大きな効果をもたらす。しかし、荊州に対する呉の思い入れと、其れに先立つ鳩派の魯粛の死、鷹派の呂蒙の大都督就任を考えた場合、関羽の対魏戦線への参加、北進は危険すぎるのである。同盟関係に在るとは言え、呉軍に裏を掻かれる可能性の有る事は考えておかねばならない。まして、相手は百戦錬磨の曹操である。呉に裏を掻かせる位の手を打つ事は充分、予測しておかなければ為らない。実際に曹操は呉に使節を送って孫権に呉王の称号を贈っている。
  若し、孔明が関羽軍の北上を容認したとすれば、関羽殺しの責任は孔明に在る。孔明程の戦略家が曹操の動きや呉の動向を察し得ない筈が無いからである。彼は自身の兵法書で繰り返し述べている。"遠い先を考慮せよ。近くに囚われるな。”と。或いは、関羽の北進は劉備の命令によるものかも知れない。何故なら、関羽の戦死を聞いた劉備の、その後の慌て振りは異常である。臣下の反対を押し切って関羽の弔い合戦を急遽、興して長江の流れを下って呉に攻め込み、夷陵で呉の名将陸遜に大敗して成都にも帰る事が出来ず、病を発して白帝城で淋しい臨終を迎えるのである。関羽の北進が劉備の命令で行われたとしても、軍師として作戦全体を指導する立場に在る孔明は、其れを止めなければならない義務がある筈である。此を考えれば、関羽の死の責任は孔明に存在する。彼の作戦の失敗で在ったと言うことが考えられる。

  曹操は、孫権から送られてきた関羽の首に体を補して諸侯の礼を以て、関羽を葬ったと謂われる。過去の一時期、曹操に破れた劉備の二人の夫人を守る為、曹操に寄食していた関羽は曹操の推挙によって漢の皇帝献帝から「漢寿亭侯」の爵位を贈られ、曹操からは名馬赤兎馬を贈られる厚遇を得ている。曹操は彼の手、此の手を使って関羽を自分の陣営に招こうとしたが果たす事が出来ず、彼の劉備を慕う心に打たれて出奔を黙認し、餞別の品まで贈った。彼の死の翌年の春、曹操が病死し、同盟を破って彼を殺した呂蒙も死ぬ。呂蒙の後を受けた名将陸遜によって劉備が大敗を喫して寂しく薨去するに及んで、関羽の滅亡事件は幕を下ろすのである。

  「赤壁の戦い」に破れはしたが、益州(蜀)を得て長江を一挙に下り、呉を滅ぼして天下を手中にするという大戦略を建てて南下を始めた曹操と、一足早く益州を占領して此処を拠点にして更に、北進して魏を攻めようとする劉備が、益州と中原を繋ぐ中間点の戦略的要衝の漢中の領有権をめぐって激しい戦いが一年にわたって繰り広げられていた。此の漢中争奪戦には孔明は参加せず、成都に居座って大本営的な作戦指導の任務に就いていた。
  孔明の建てた有名な三国鼎立戦略「隆中策」の重要なポイントである荊州の大部分は既に、「赤壁の戦い」の勝利の余波をかって素早く行動した劉備軍が抑えている。荊州は今の湖北省、湖南省から広東省に及ぶ中国の穀倉地帯を占める広い地である。"江南熟れれば天下飢えず。”と言われる豊穣な地である。中原を抑える魏の占領地とは南から隣接する戦略上の要衝である。
  此の時期、孔明を始めとした劉備軍団の主だった文官や武将は益州取りに出征していた為、荊州の経営は劉備軍団の前将軍{首席将軍}関羽一人に任されていた。此の時つまり、劉備と曹操が漢中で激突を繰り返している時期、劉備支援の為に関羽は孔明の「隆中策」戦略に則る形で荊州の軍勢を率いて北上し、魏の南部戦線の拠点襄陽を攻めるのである。初戦は関羽軍の連戦連勝、樊城に魏将曹仁を囲む。しかし、体制を建て直した曹操軍の応援部隊が到着し更に、曹操自身が長安から洛陽に移って直接指揮を執るに及んで戦線は膠着状態になった。此の時、呂蒙に率いられた孫権軍(呉)が関羽の後ろを突き、本拠の江陵が攻め取られ、麦城で捕縛されて斬られるのである。呂蒙は、"劉備と連携して魏に対抗する。”戦略を推進した鳩派の呂粛の死を受けて大都督に就任した鷹派の武将で在った。

「人間諸葛孔明」の発見巻二(1)

「一下万上」から諸葛孔明の戦略を考察する

1,関羽軍の北進と名馬「赤兎馬」