「赤壁の戦い」当時、彼に従わない軍勢は、孫権の軍勢三万、劉備や江夏郡の軍勢一万でその他の小勢力を併せても五万に満たない。彼の軍は「百万の衆」と号する大軍である。勝敗の帰趨は決着したも同然で、曹操が得意の絶頂になるのは当然で在った。此の様な時期、大会戦を明日に控えた曹操が世捨て人の様な、賢人が訪ねてきた事を悦ぶ様な歌を詠むだろうか?戦いを前にして興奮し、酒に酔って気分が昂揚している時である。まして、孫子の兵法の注釈書を著す程、戦略や戦術に長けた曹操である。酒に酔ったとは云え、戦に全く関係が無い、客人の来訪を悦ぶだけの詩を詠むとは思えない。此の酒宴は将兵の気分を鼓舞し、彼等に闘いに臨む決意を固めさせ、我軍が天子を擁する官軍である事を内外に宣言する目的が在った。だからこそ、曹操の心の裡を読み取る事が出来ず、将兵の戦意を挫かせる発言をした劉馥を刺し殺したと思う。

  多くの先生方は、詩中の「」の文字を 「貴方」と読み、遠くから曹操を訪ねてきた賢人、賓客と解釈する。「君」をこの様に解釈すると、"月明星稀、烏鵲南飛;綫樹三匝、無枝可依。”の四句は只単に "烏鵲が飛んで行く”だけの風景を描写しただけで、後の結句が意味を持たなくなる。此の詩情に富む四句が前後に何の関連も持たずに唐突に現れて寧ろ、不要の句になってしまう。劉馥が指摘した様に "頼る所が無い”と為り、大会戦を前にして不吉な一句と為るのである。大詩人の曹操がそんな無意味な句を、四句も詠み込む筈はない。
  筆者は僭越ながら、「」の字句を 「帝、献帝」と解釈してみた。すると詩、全体が無理なく通るのである。"月明星稀”以下の四句は結句の "山不厭高、水不厭深;周公吐哺、天下帰心。”の四句に無理なく通じるだけでなく、結句が逆に曹操の決意を示す句として生きて返ったのである。曹操が流浪の献帝を許昌に迎え、帝を擁して天下統一に乗り出す意気込みと決意が詠み込まれた気宇壮大な詩に為るので在る。
  多くの先生方は初句の "対酒当歌、人生幾何;譬如朝露、去日苦多”と続く "何以解憂、唯有杜康”に世を終えた老人或いは、世捨て人が”酒に浮き世の憂さを晴らす”様な雰囲気に捉えられ、曹操の壮大な決意を見逃していないだろうか。長江という雄大な風景を前にし、天下分け目の戦いを目前に控えた酒宴である。長江が醸し出す雄大な雰囲気と作者自身の敢然とした決意、兵士の勇気を鼓舞するデモンストレーションが詩の中に詠まれ無くてはならないと思うので在る。

  当時は封建制の真っ直中で在る。皇帝に力は無くとも権威は残っていた。長期政権で在った漢王朝の皇帝と為れば民衆の尊敬度は計り切れ無い程高かった。洛陽を焼かれ、長安に遷都、董卓の死によって混乱する長安から逃げ出したが、寄る辺の無い献帝には多くの民衆の同情が集まっていた。
  今、日本の皇太子の内親王、愛子様にテレビの報道が集中し、世の女性達が皇室の方々を映すテレビの視聴率を上げる事実を視ても明白である。放浪する献帝を、曹操が許昌へ招き、保護をした。民衆は曹操の行為を喝采したに違ない。此等の事実を認識すると、冒頭に記載した「君=帝」という筆者の解釈になる。
  曹操は此の「短歌行」の前に「薤露」という詩を詠んで漢王朝の終末期、献帝を襲った悲劇を嘆く。此の詩の結句を彼は "贍彼洛城郭、微子為哀傷”と結ぶ。”焼け野原と化した城郭を眺めても、力の無い我は哀しみに傷むだけで在る”と献帝、漢王朝の衰頽ぶりを悼み、言外に密かな天下取りの決意を述べるのである。
  「短歌行」は世の先生方が解釈している様に、只酒に酔って詠んだ表面的な意でなく、もっと奥深い意味が込められた詩であった。此の詩を読む限り、我々が曹操に対して抱いている”悪逆非道此の上無き暴君”というイメージは誤りであると感じる。”漢王朝を復興し、乱世を終わらせたい”という意思を感じるのである。

「屁放き老師三国志に游ぶ」曹操篇

巻二

曹操の「短歌行」を読む(第二章)

ー烏鵲南に飛ぶー(巻二曹操)

  詩や歌は文言の裡に作者の想いが隠されている。此れは巻一に述べた。読む人によって様々に解釈される。芸術の面白さ、奥深さである。  我が短歌の師、東井冨子老師は "歌は三十一文字に感情が要約された文学で、三十一文字の裡には原稿用紙が百枚以上も書かれたものが隠されていなければ駄目!”と機会ある毎に教えて呉れた。"只の描写、説明に終わっては詩歌文学とは云えない”とも。
  「三国演義」第四十七回 "長江に宴して曹操詩を賦す”には「赤壁の戦い」を目前にして、酒宴を催した曹操が酒に酔って詩情止み難く、即席の詩「短歌行」を詠む。”詩中の「"月明るく星稀にして、烏鵲南に飛す。樹を綫る事三匝、依る可き枝無し」を不吉な句と指摘した劉馥を槊で一刺に殺してしまった”と記載される。此処でも曹操は自分の作った詩にケチをつけた重臣を斬殺するという非道ぶりを演じるので在る。
  曹操は「赤壁の戦い」の此の時期、得意の絶頂に在った。「官渡の戦い」に勝って袁昭父子から北方の支配権を奪い、流浪の献帝を許昌に迎えて保護し、更に献帝を取り巻く公家百寮との権力闘争も無事に乗り切って丞相に就任し、漢王朝を主催して諸侯に号令する地位に在った。彼に従わない長江流域を攻めようと自ら南征を敢行し、劉備率いる反曹操軍を一蹴して荊州の北半分を従え、孫権が割拠する江南から、荊州の南部を残すのみの天下統一の目前に在った。

「烏鵲南へ飛ぶ」巻3
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