龐統は呉の将軍周瑜の友人で、彼に請われて曹操の陣を見に行ったとも云われる。当時の荊州では、"臥龍と鳳雛を得れば天下を獲る。”と二人は讃えられた。礼を低くして賢才を求める曹操の心が好く顕された場面である。戦を間近に控えて自軍の布陣を他人に見せるという事は尋常でない行為である。彼は決して傲慢さを表さなかった。陳寿も、"其の能力に応じて、自らの感情を抑え、損得を考え、・・・。”と述べる様に、深い考慮と慎重さに則った行動をした。孔明も「後出師の表」では曹操を天下の英雄と褒め称える。


「曹操簒漢説」ー南宋の朱熹による価値観の変更ー

  時代が降るに従って、漢王朝の後継国家は蜀漢王朝で、曹操が建てた魏王朝は悪の根源であるという判官贔屓の学説が民間を始め、学者間に広まった。南宋時代の儒学者、朱熹{朱子学の祖}が、「通鑑記事本末」という著書に「曹操簒漢」と記載して魏王朝を否定し、蜀漢王朝が漢王朝の正統な後継国家で在ると認定する。更に、朱子学が後世の各王朝の統治理念に重用されるに従って、魏王朝による漢皇権の簒奪説、曹操の逆臣説が定着する。明代の羅貫中も此の風潮に従って、小説「三国演義」を著して曹操逆臣説が今の「三国志」の主流と為るに到るので在る。
  乱世を終えさせ、天下に平和をもたらせようとすれば、非道の行為を敢えて為さざるを得ない。日本の戦国末に、人々や朝廷に崇拝されていた比叡山延暦寺を焼き討ちし、数多の高僧、善知識や婦女子三千人を虐殺した織田信長の革命とも云うべき「叡山攻め」や、クリスチャン禁止令によって宣教師やキリスト教徒を張り付けにした豊臣秀吉、豊臣氏を滅ぼす際に見せた徳川家康の冷酷、残虐性つまり、「大阪の陣」等が有名である。
  諸葛孔明も旧勢力の反抗には手を焼いて、厳しい法令と容赦の無い執行、厳粛なる賞罰、除黜を以て彼等に対処した。


「曹操名誉回復」ー筆者の曹操に対する勝手な評価ー

  三国時代当時の勢力分布は、魏王朝が全国十一州の内、七州を傘下に納めていた。洛陽や長安の帝都邑や先進地帯が其の範囲に含まれる。人口、戸数も全中国の70%近くを占める。これだけの広範囲な地域を短期間で己のものにし、其の統治を続ける事は悪逆非道な指導者では為し得ない。何らかの理想と民衆を引きつける魅力が無くては叶わない。詩人、曹操は大胆な行動と果敢な決断で、皇帝を取り巻く一癖も二癖もある超保守的な文武百官を制御し、滅亡寸前に在った王朝の権威を盛り戻すので在る。
  とかく、芸術家は感情が豊富で行動が感情に支配される事が多い。「三国演義」では、「短歌行」を批判した劉馥を槊で一刺にする悪辣さを見せる。しかし翌朝は、昨夜の行為を反省して劉馥を手厚く葬る。逆に見れば、曹操の回りには "臣下が自由に主君を批判し、意見を述べる事が出来る親しい雰囲気を帯びた上下関係が在った”と言う事も出来るのである。

  また、曹操の失敗例は、孔明が「後出師の表」に指摘する様に無数にある。しかしその都度、彼は劣性を盛り返して失敗しても、戦に破れても "けろっ”と対処して "しょげかえる”事は無かった。"善敗する将帥は亡ばず”と謂う古の諺を実際に実証した。「赤壁の戦い」では八十三万とも伝えられている大軍が呉軍の火攻めで潰滅し、自身は命からがら逃げ落ちるという未曾有の大打撃を蒙る。雌雄を決する大会戦に壊滅的敗北を喫した場合、彼の命運は尽きる。尽きずとも徐々に勢力が衰えて後は滅亡を待つだけに至るのが通常である。ところが曹操は意気消沈するどころか、漢王朝の丞相として指導力と勢力を維持し続け、荊州への進出をその後も謀り、天下統一の夢を持ち続けるのである。一方、戦いに大勝利を得た孫権も劉備も、曹操を滅ぼし去る迄の力は無く、荊州の長江沿岸から南部と東部の支配権を確立するのが精一杯であった。

  筆者は、曹操は "混乱期に天が此の世に下した不世出の英雄の一人である”と思う。何度も言うが「短歌行」の解釈の見直し、その他の考察を加える事に因って曹操が「三国演義」に描かれている様な悪の権化とは思えない。彼は寧ろ、漢王朝を興した名宰相の蕭何と名将の韓信を兼ね備えた文武に秀でた、中国の歴史に燦然と輝き、他の追随を許さない人物ではなかっただろうか。”曹操は、孔明を遙かに上回る偉大な英雄で在った”と最近、気が付いた。孔明の翻訳が進むに従って孔明の採った戦略は、余りにも曹操の其れに似ている。治国や国家の再建に、彼を真似た点が多い事を改めて認識した。
  「三国演義」の作者羅貫中と「曹操簒漢説」の朱熹によって、徹底的に貶められた曹操の名誉を回復する機会を是非、もちたいと思う。

「屁放き老師三国志に游ぶ」曹操篇

巻三

ー烏鵲南に飛ぶー(巻三曹操)

曹操の戦略戦術

  曹操の幕裏には多数の賢臣が仕え、人材は豊富であった。冒頭の陳寿の言葉にも "過去にとらわれず人材を集めた”とある。過去の経歴がものを言う事は当時に限らず、現代でも転職や再就職のテストでは履歴書や職務経歴書の提出が要求される。賞罰や収得資格が採用の合否に影響を与える。当時は封建制の真っ直中に在った。就職希望者は先祖の経歴までも問われた。しかし、曹操は過去に犯した過失には囚われず、実力本位で採用し、適性に応じた職を与えたという。自分の感情つまり、好き嫌いを抑えて人材を登用したという。孔明も人材の登用では曹操を見習ったと思われる逸話を残している。謀反人や蜀を裏切った者の息子や家族、敵対した者迄も官僚や参謀に登用する。
  若い孔明の思想形成に大きな影響を与えた徐庶や崔州平、石広元、孟公威等の知識人も曹操に仕えたが差ほどの出世はしなかった。徐庶は御史中丞(次官位)の役職で終わっている。後に此を知った孔明は、"魏には斯くも多くの賢臣が居るのか!”と驚いたと云う。
  「赤壁の戦い」の直前、鳳雛と称され、其の学識、実力は臥龍と称された孔明と匹敵すると称えられた龐統の来訪を悦んだ曹操が、自軍の陣営を案内をして布陣の様を見せて歓迎する場面が「三国演義」に描かれている。・・・・・。

「曹操の息子達」”曹丕と曹植”
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