「千字文」は今から約千五百年前、南北朝時代、南朝の梁王朝{公元502〜557年}の創始者・武帝{蕭衍}の命を承けて周興嗣が編纂した文である。其の衝撃が如何に、大きかったかは此の文が編纂された直後に、此を模倣した「千字文」が多く現れ、今に残されている事でも知れる。多くの「千字文」の内で唯一、国家の勅令によって纏められた此の周興嗣編纂の「千字文」は日本にも伝えられた。当時の日本には文字は無かった。此の前後から漢字を使った記録が見られる事を考えれば、「千字文」の我が国の文化に及ぼした影響の大きさが判る。中国を取り巻く国々にも伝えられた。当時、中国を取り巻く周辺国家は漢字を共通の文字として採用していた。「千字文」は我が日本のみならず、中国の影響下に在った全世界の文化に及ぼした役割は大変なもので在ったのである。

  文章の中に一句が何となく頭に残った。「閏餘成歳」である。「閏が余って歳が成る。」と翻訳される。今の我々には閏年は平年に比べて一日(2月29日)多いのが当たり前であるが古代では、太陽と月の運行のズレ、暦と季節の狂いはおおごとであった。此の「閏余成歳」を調べる内に古人の英知が深く込められた句で在る事を知った。暦は日月の運行を観測して計算されて古代の唯一の生産活動であった農耕に応用され、播種や刈り入れの開始決定に適用された。閏月は太陽や月の運行から算出された暦を実際の四季、季節に当て嵌める為に設けられた。詳しく説明すると、太陽は30日をかけて一ヶ月を経る。一年は360日となって五日のずれを残す。此を「気盈」或いは「大餘」と呼んだ。一方、月は二十九日余を行して一ヶ月を経る。一年でやはり5日余りのずれ、「朔虚」或いは「小餘」を残す事になって季節を大きく狂わせる事になる。暦と四季のずれは3年で約一ヶ月、5年で約二ヶ月の狂いが生じ、遂には暦の夏に雪が降り、冬にかき氷が欲しくなる事態にも為りかねない。其処で、古の聖人君主として有名な唐堯は「閏月」を設けて暦を四季に合わせ、此を制度化して農耕や人々の暮らしに適用したと云う。"閏月を以て四時を定め、歳と為す。”と「書・堯典」に記載される。此が「閏余成歳」の一句なのである。古の人々の英知を知らされる一句である。

  中国以外でも、古代マヤ文明の優れた天体観測が有名であるが、太陽や月、金星等の星の観測から算出されて実用に供された暦は、農耕(焼畑農耕)や都市間の戦争等、人々の生活の全てを司った。グレゴリオ暦の紀元前3114年8月13日に始まり、紀元9世紀にテイカルの都市が放棄される迄の約4千年に渡るものであった。しかし、マヤが滅ぶのは16世紀だから此の暦は9世紀に留まらず、滅亡の瞬間まで使われていたと思われる。又、古代マヤ人は一年が365.24日である事も知っていたという。此の様に素晴らしい暦を発見したマヤ人達も伝染病には勝てず、16世紀スペイン人によって持ち込まれた疫病によって90%の住民が死亡して暦と共に消え去るのである。しかし今も、マヤ人は毎年播種期を迎える春にテイカルのピラミッドの広場に集まって太陽に豊穣を祈っているという。マヤでは今も暦が生きているのである。
  マヤと同じ様にアメリカ大陸に栄えたインカやアステカでも暦が作られ、利用された。しかし、アステカの暦を支配する太陽は恐ろしい神であった。人々に生贄を要求したのである。戦争で捕らえた敵の戦士の心臓が生きた儘、えぐり取られて太陽に捧げられた。インカでは傷やホクロの無い子供達が、新たにインカの支配下に参加した国々の信仰対象としてミイラにされる犠牲と為った。マヤの北部の密林にある湖、セノーテの底には雨の神に捧げられた子供の頭蓋骨が沢山、発見されている。
  古代エジプトでは夜明け前に輝くシリウス星と毎年起こるナイル河の氾濫サイクルから暦を算出した。十進法を基本にして、一年を洪水季、播種季、収穫季の三つの季節に分け、一年は12ヶ月、各月30日(10日毎の上旬、中旬、下旬)で360日とし、此に年に一度、5日の祭礼の日を加えて一年を365日としていた。微調整(0.24日の端数調整)は、シリウス星が夜明け直前に顕れる日と洪水季の1月1日が一致する日を「真の正月」として特別に祭って調整していたという。60進法を編み出した古代メソポタミアでは吉凶を占う為に天体観測が行われて太陰暦が使われていた。此の様に古代の世界の各地では、播種の時期を正確に知る為に天体観測が行われ、其の観測から暦が完成されて実際に使われていた。
  エジプトのラムセス二世がブタハ神、アメン神、ラーホルアクテイ神の3像と並んで鎮座するアブ・シンベル神殿では、春分の日(エジプト暦2月22日)と秋分の日の朝日が神殿の一番奥に坐すラムセス二世等の像を照らす仕掛けが今でも観光客を集めている。又、マヤの一都市チチェンイツアー遺跡に在るピラミッドでは春分の日、陽が西に傾く頃に豊穣の神・大蛇ククルカンが姿を現わして人々に播種の時期を知らせるという工夫が凝らされている。
  此の様に、気が遠くなる程の昔に計算された暦は、古人が現代に残す偉大な建造物にも遊び心を提供する程、正確な素晴らしいもので在ったのである。今我々が使っているグリグリオ暦の四年に一度の閏年は紀元前45年1月1日にユリウス・カエサルによって採用された太陽暦(ユリウス暦)に始まる。

  此の様に暦は、人々の生活に欠かせないものであった。"古今東西を問わず古人の英知は凄いものだったんだなあ。”と私の様な浅学な老人は唯々、古人の英知に感嘆するだけである。我々現代の人間は古の時代から進歩したんだろうか?本当は古の時代の方が科学は進んでいたのではなかろうか、と虚しい想いに耽らされているのは筆者だけであろうか?

表紙「閑叔白文の”孔明夜咄」書屋
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  エッセー「閏餘成歳」ー完ー
  
 2007年6月8日 
   在、遊蜘窟・閑叔亭

「閏餘りて歳を成す」下巻

「千字文」注釈 ー周興嗣撰ー 

エッセー「閏餘成歳」

三眼六臂戴冠姿 手里羂索衆生救
金鐘古寺観世音 尊名是不空羂索
         白文題