温かい日射しに誘われて曼殊院門跡に足を伸ばす。曼殊院は竹内門跡とも呼ばれる門跡寺院(皇族や貴族の子弟が代々住持となる別格寺院のこと)で青蓮院、三千院(梶井門跡)、妙法院、毘沙門堂門跡と並んで天台五門跡の1つに数えられる。初代門主とされる是真国師が菅原家の出身で在った事から曼殊院は北野天満宮と所縁が深く、当寺院の歴代の門主は北野天満宮の別当を兼ねたと言われる。明応4年(公元1495年)頃、後土御門天皇の猶子である大僧正慈運法親王が26世門主として入寺して以降、曼殊院は代々皇族が門主を務めることが慣例となり、門跡寺院としての地位が確立された。
其の後、桂離宮を造営した八条宮智仁親王の第二皇子で後水尾天皇の猶子であった良尚法親王が第29世門主に招かれた。良尚法親王は天台座主(天台宗最高の地位)を務めた仏教者であると共に茶道、華道、香道、和歌、書道、造園などに通じた教養人として当代文化に与えた影響は大きかった。曼殊院に伝存している茶室や、古今伝授資料(古今和歌集の秘伝を相承するための資料)、立花図(池坊流2世池坊専好の立花のスケッチ)などの文化財は法親王の趣味の広さと教養の深さ今に伝える。
参観路は庫裡から始まるが、其処の竈の大きさや大釜等、当時の大寺院としての規模が偲ばれる。重文の木造不動明王立像の頭上に長く棚引く火炎が印象的で在った。小書院に在る二畳の茶立所(「無窓の席」)は板床が在って炉が切られ、茶室としても使用できる。小書院の北側には設けられた茶室は「八窓軒」と呼ばれる。庭園は小堀遠州の作と伝わるが年代が合わない。帰路に見上げた山門は大門跡寺院としての風格を見せて聳える。
因みに「千日回峰行」とは、千日(実際は975日)に渡って比叡山に在する各御堂をお詣りして回る修行で満行者は「北嶺大行満大阿闍梨」と呼ばれる。千日回峰行の行程は、1〜3年目は年に100日、4〜5年目は年に200日、30キロ前後の山中路を6時間掛けて各お堂をお詣りして回る。此の700日の比叡山と周辺の260堂参拝回峰を終えられた後に、「堂入り」つまり、無動寺明王堂で足かけ9日間(丸7日半ほど)に渡る断食、断水、断眠、断臥の「四無」の苦行と呼ばれる苦行に入る。此の荒行を成し遂げる事を「堂下がり」と呼ばれるが、「堂下がり」を成し遂げた修行者は、生身の不動明王つまり、阿闍梨と呼ばれ、自利行から衆生救済を目指す他利行に入るとされる。更に、修行は続く・・・。
6年目には比叡山各峰の彼方此方の各お堂を参拝回峰された後、赤山禅院への往復を加えた60キロ/day、100日の荒行「赤山苦行」が、堂下がりをされた阿闍梨様に課せられる。つまり、比叡山から雲母坂を登降する「赤山苦行」と称する荒行で、赤山大明神に対して花を供するために毎日、比叡山中の行者道に倍する山道60キロを高下するので在る。更に、7年目の前半100日は「京都大回り」と呼ばれる全長84キロを回られる苦行を終えられた後、比叡山内30キロの回峰に戻って千日回峰が満行と為る。千日回峰満行者は御所に土足参内が許され、皇族方や御所に詰める人々に対して加持祈祷を為す事が許される。
筆者は今年の6月、菩提樹の黄花と紫陽花の群花を鑑賞する為に参拝した真如堂の大門の脇の塔頭法住寺の露地から、「京都大回り」の行中で在る千日回峰行中の釜堀光源(弘元)師が出立なさるのを合掌しながら見送らせて頂いた。此の出遭いは、師が「赤山苦行」を終えられて「京都大回り」行の最中との事で在ったが9月18日、比叡山開山以来51人目、戦後9人目の「北嶺大行満大阿闍梨」と為って満行を為されたと聞いた。
京都はんなり歌草子
しかし、千日回峰行の満行間近で在る「京都大回り」修行中の高僧に巡り会う等、京都ならでの出来事否、京都人でも滅多に出遭う事が出来ない経験に巡り会う等、本当に京都に越して来て好かった。
「赤山苦行」ではないが、我々は赤山禅院参拝を終え、参観させて頂く為に修学院離宮の御門前に戻る。後水尾上皇が設計建造為されたという修学院離宮は随所に借景を配する。或る時は比叡山の山容を富士山に見立てた上の茶屋を見上げ、或る時は同山を離宮全景を彩る背景とし、或る時は京都の街全景を見渡して離宮の眺めを荘厳し、或る時は離宮内の田畑を棚田に見立てて其処に働くお百姓さん方をも借景として捉え、上の茶屋の一の間の五畳半の座所から季節の移ろいをお眺めに為られるのを愉しみにされたと云う。内親王(娘)19名、親王(男子)を16名という子沢山も上皇の美意識を飾られた愛の御行為で在ったろうか???
明治天皇がお馬車で上の茶屋、中の茶屋を廻られる為に馬車道が建造され、目隠しの松を植えて松並木にされたと云う。其の松並木を添えられる馬車道が残されて、離宮に厳めしさを残した。棚田の間の畦道を歩く事を楽しまれた後水尾上皇の建設時の御心、美意識を大きく損なう松並木で在ると思うのは筆者だけで在ろうか??
比叡山 京の街並み 棚田皆 農夫も借景 離宮の秋賞づる
棚田為す 田畑の風情も 哀れなり 松並み馬車道 真中を突っ切る
「おりふしのお噺」輯
師走の洛北を歩く
堺から泉を誘って修学院離宮参観。昨年の経験つまり、秋の到来が遅れて紅葉の盛りが12月に為る可能性と女房の入院加療、胆石による胆管鬱ぎを原因とした肝指数3400という恐ろしい位の髙数値更に、肝臓機能数値回復に伴う胆嚢手術除去というアクシデントで11月の参観申し混みが間に合わなかった事が理由で12月にずれ込んだので在る。
朝10;00過ぎ、三条大橋で泉と落ち合って「進々堂」で朝食。壇王前の「三条京阪バス停」から5系統バスに乗る。バス停「修学院道」と間違えて「修学院口」で下車、徒歩で修学院門に到着した。参観開始時刻に一時間程度の余裕を利用して赤山詣で・・・。 赤山禅院は、明治時代の廃仏毀釈で神と仏が分離崇拝される以前の神仏混交信仰が未だに、残された寺院神社で在る。延暦寺の別院(塔頭)の一つで本尊は泰山府君(赤山大明神)で在る。京都御所から見て表鬼門の方角(東北)に当たる為、方除けの神として古来信仰を集めた。拝殿の屋根の上には、御所の東北角・猿ヶ辻の猿と対応して、御幣と鈴を持った猿が安置されている。代々の比叡山の阿闍梨様が住職を勤められる寺院で在る。鄙びた比叡の山麓は何時、来ても深山の雰囲気を醸す好い寺で在る。天台宗の荒行の一つ、千日回峰行にも因む、都の鬼門の守りを為す比叡山の一寺院でも在る。
洛北の 古寺も離宮も 落葉して 早や冬ごもり 師走始まる
園城寺(三井寺)の黄不動尊像を写した国宝黄不動図所謂、絹本著色不動明王像図が有名で在る。寺院には模索が展示され、本物は京都国立博物館に委託所蔵される。
洛北の 古寺も離宮も 落葉して 早や冬ごもり 師走始まる
斯くして、洛北東山の修学院離宮参観と二ケ寺院の拝観の一日を終えて浄土寺清水町から市バスに乗り、京阪三条駅改札口で妹と別れた。別れて二時間ほどして泉から「今さっき、帰り着いた。今日は有り難う」と電話が掛かった。「お兄ちゃんは二時間かけて毎日、堺から京都へ通っていたんやね」と。「少しは尊敬したか」?????