「都の辰巳に棲まいして」
彼女自身が著した「花喰鳥―京都祇王寺庵主自伝」や「黒髪懺悔」、「つゆくさ日記」、寂聽の小説「火徳」や、岡田茉莉子が主演した映画等で彼女の生涯が紹介された。
祇王寺のパンフレットには彼女、智照尼の詠んだ春夏秋冬の俳句が四句記される。「まつられて百敷き春や祇王妓女。短夜の夢うばうものほととぎす。五十年の夢とりどりの落葉かな。祇王寺と書けばなまめく牡丹雪」の四句で彼女の詠句の秀でた文学才能を讃えたい。平成6年、明治から平成までの有為転変、激動の半生を経て祇王寺の庵主として静かに98歳の人生を閉じたと云う。
御庵主は 芸妓為りとふ 祇王寺は 女五霊の 紅葉のいほり
なまめかし 名を残してや 祇王寺の 女霊五体 尼御前も居て
御庵主の 四季の俳句 書かれ在り パンフレット読む 紅葉する寺
「化野念仏寺まで15分と書いて在るが、如何する?行くか??足の神経痛は好いかな??」。「大丈夫よ」。訊いた方が馬鹿だった。答えは始めから決まっている。斯う為ると行かざるを得ないが、筆者の脚の方が心配で在る。「ままよ!」と化野念仏寺へ歩き始めた。「化野念仏寺は片平なぎささんと大村崑さんで有名だよ」。「また、テレビの話?」。「葬式屋の娘社長と先代から娘の事を頼まれた番頭さんだよ」・・・
苔生す墓や石碑が犇めいている。「お盆には灯火が列ぶんだよ」。「お前もテレビの話やんか」。「私のテレビは何とかチャンのタレントのドラマじゃないよ」。居並ぶ小さな石墓を眺めて「ふー、やっと嵯峨野も終わった」と紅葉に染まる嵯峨野を後にしようと、元来た径を歩き下る。
墓石碑 犇めく化野 念仏寺 嵯峨紅葉狩り 締めと詣でき
「嵐山と嵯峨野を歩く」巻二
「都の紅葉を彷徨い歩く」巻二
小倉山二尊院の紅葉の馬場
バスに乗ろうと、バス停が在ると教えられた大通りを捜しながら、坂道を下り進むと大きな屋根が聳えている。「あっ、嵯峨の釈迦堂、清涼寺じゃないかな。ついでにお釈迦様にお詣りしてかえろ」。・・・。「此の清涼寺の手前の薬王寺の住職は俺と同期の林科の男や。彼は俺を知っているらしいが、俺は知らない」。「仏教の学校じゃないの」。「否、兄貴が死んだから急遽、弟の彼奴がオッサンに為ったんや」・・・・。
「此のお釈迦様はガンダーラ様式で東大寺の僧奝然が宋に留学したときに模刻させて日本に持ち帰った仏様や。両肩に衣が掛かって襞が流れる様に下がってるやろ。清涼寺式釈迦如来と云う様式や」と偉そうに女房に喋る。「此の絹で縫われた五臓六腑は此のお釈迦様の胎内から見付けられたんや」・・・・。此処の庭も「紅葉してるなあ」。「紅葉はもういいわ」と女房。「今日一日で八ケ寺や。よう、歩いた。バス停を見付けて帰ろう。足否、腰は大丈夫か??」・・・。バスは嵐山天竜寺前に着いた。
「凄い人の出やなあ」。「此れが当たり前でしょう。紅葉に連休ですよ」・・・。「そや、此処まで来たんやから、渡月橋をついでに見ておこう。其処や」・・・。斯くして紅葉に堪能した一日が終わって、午後三時前に家に辿り着いた。
「嵐山と嵯峨野の紅葉を見尽くしましたね」。「否、一箇所見忘れてた。寂庵や。寂庵を見忘れたわ・・・」
京の紅葉を彷徨い歩く巻一「嵯峨野の巻ー完ー
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次は、「小倉山二尊院」拝観で在る。此処も満開の紅葉、満開の紅葉はおかしい特に、満開は有り得ない。此処は最盛の紅葉としておくか??発遣の(現世から未来へ送り出す)釈迦と来迎の(浄土世界に迎える)阿弥陀の二尊如来立像を祀る。総門(薬医門)を抜けた紅葉の馬場と呼ばれる参道には楓の並木が参道を朱く、黄色く錦に染める。総門の脇に「西行の庵跡」という石碑が佇む。紅葉の馬場は西行に似合うかも知れない。この寺の奥裏にも藤原定家の「時雨亭の跡」と称される古跡が残される。確か、常寂光寺にも在ったが小倉山と来れば定家の「時雨亭」と為る。小倉山麓の彼方此方に「時雨亭」が在ってもおかしくはない。西行の庵跡に関して言うと、落柿舎の裏に「西行の井戸跡」まで準備されている。出来過ぎか??真実か??まあ、此処は「時雨亭跡」と共に大歌人西行法師に免じて大目に見ましょう。応仁の乱で延焼したが三条西実隆が唐門と本堂を建て直し、総門は高瀬川を開いて京の運搬に貢献した角倉了以が、伏見城の薬医門を移し建てたと云われる。二尊院の裏には角倉家と三条家の墓所が置かれて両家の先祖の貢業を述べる。
祇王寺の美人尼御前
紅葉の馬場を紅葉を見ながら帰り下る道で何処かのテレビ局の撮影に出喰わした。ジーパン姿のちょっと、汚らしく見えるタレントが偉そうに喋っている。しかし、彼の前には喋る文句を書いたスケッチブックが準備され、担当の男が其れをめくり示し、彼は其れを見ながら喋っている。「なーんや。カンニングやンか?」と大きな声を出したが、彼らは構わず登って行った。無視されるのが当たり前で在る。「何処の爺いか判らん奴の言う事なんか気にしねえよ!」とでも思っているので在ろうか。
「祇王寺」は清盛の心変わりに世を儚なんだ平安末期の遊女、白拍子祇王の悲恋と清盛の寵を祇王から奪った仏御前が世の虚しさを感じて祇王と共に髪を降ろし更に、祇王の母刀自と妹祇女の四人の美女が隠棲した庵跡として、紅葉と竹林に抱かれたこじんまりした寺で在る。四人の像が祀られている。「何と色っぽいお寺で在る事よ!」と筆者も書院で四人に出遭って彼女らの像に叩頭合掌した。
小倉山 紅葉に隠りし 庵寺 平家物語を 彩る四女
祇王寺の再建には戦前、其の美貌で鳴らした新橋の芸者照葉が関係する。否、再建を成し遂げた照葉女史は、得度して智照(姓は高岡)と名乗って庵主と為り、荒れ果てていたお寺を再興した事でも知られる。明治26年生まれの彼女は、芸者現役時代は様々の浮き沈みを経験し、其の後は文学芸者として名を馳せた。彼女の美貌は、当時の絵葉書屋さん達からも「修正不要」の芸者モデルと讃えられたという。情夫と浮気をめぐってもめた時、情夫に対する言い訳と彼に対する義理立てから小指を詰めて其の後、北浜の相場師と結婚して渡った米国では「"Nine-Fingered Geisha(9本指の芸者)"と呼ばれて其の美貌を謳われた。昭和10年、久米寺で得度して祇王寺の庵主と為り、廃寺と為って荒れ果てていた寺の再建に従事した。
美人尼御前
常寂光寺の石段
祇王寺の尼御前の巻