漢口江灘の巷に青椒肉絲を喰らう

  久しぶりに中国に行って来た。今回の旅は、大した目的の在る入唐では無かったが、三国時代から漢王朝時代に遡る三千年の歴史街道や港(津灘)を期せず訪れ、30年振りの想い出に浸る。また、或る美女(筆者は「湖北の西施」と呼ぶ)と半年ぶりの再会等、筆者にとって有意義な愉しい想い出を辿る旅と為った。しかし・・・。
  楽しかった一方、飛行中に落雷を受ける等、最終目的地で在る武漢の天河国際空港に着陸出来ず、湖北か安徽省の何処かの空港に一時着陸して天候の回復を待って三時間晩れで真夜中の武漢到着。空港に私を迎えてくれた湖北の西施女史には叱られまた、帰国時の上海浦東国際空港では理由は判らなかったが、二時間晩れのテイクオフ、関空に夕方の到着する・・・という、初めと終わりが好しくない旅に為って終った。更に「湖北の西施女史」が、孫女の世話と母公の喘息介護の為、早々に帰宅と云う筆者に取って不幸な出来事が待機していた旅でも在った。でも不幸な反面、三十年昔の長江河畔での長江との出遭いや三千年の歴史を刻んだ街道での青椒肉絲等、初の入唐の感激を蘇らせ、美女「湖北の西施」との半年ぶりの再会を愉しむ、嬉しい旅でも在った。

  「漢口江灘」は古代からの港(津)で在る。三千年の歴史的な街道(古の酒店つまり、宿屋街)は、今も食堂が両側に並ぶ賑わいを見せる。三国時代から漢王朝時代、今の漢口が夏口と呼ばれていた当時、長安や洛陽の都邑から漢江を下る大河の街道と呉越と巴蜀を結ぶ長江を利用する街道が交わり更に、長江を下って湘江や蕭江を利用して交州と呼ばれた今の広州に到る当時、荊州と呼ばれた江南地方を下る街道が一点に集まる巷で在った。つまり、中国の東西南北に通じる街道が此の地で交わる物流と戦略の要衝で在った。
「屁放き爺さん折節のお話し」巻三
  三国志では、曹操に追われた劉備が当時、夏口と呼ばれていた漢口に逃げ込み、諸葛亮と呂肅が力を尽くして孫権と劉備の協力関係つまり、孫劉同盟を結んで三国鼎立の大戦略実現の発端と為った地でも在った。
  現代でも、北京から広州に到る南北鉄道と上海と成都などの地方を結ぶ東西鉄道が交わり、貨物を満載した筏を何隻も繋いだ筏船団が長江を上り下りする交通の要衝で中国の物資の集散地を為す街で在る。
  一軒の餐店で青椒肉絲とビールを頼んで貰った。青椒肉絲は彼の時、つまり三十年昔に此の辺りのレストランで食った事が記憶忘却の果てから蘇ったからで在る。「あの時、"此処は三国時代には宿場街道で多くの旅人が通った酒点街だった”と教えて貰ったなあ」。此の旅は千八百年否、二千五百年の漢王朝時代に到る歴史を辿る旅だったんだ。

        三国漢 古き歴史を 伝ふる巷 古代を今に 青椒肉絲喰らふ

  漢口江灘公園の三十年昔の想い出

  辿り着いた翌日、差し当たった仕事を無いのを好い事に朝食後、何時も宿泊するホテルに隣接する勝利路歩行道を愛人??美女と散歩する。路上、件の美女は女性服装店に入店してショッピングを愉しむ。その都度、筆者は遊歩道に置かれたベンチで休憩したが、ベンチに坐っていると中国人に見えるのか?数人に道を尋ねられその都度、中国人が道を教える場合に言う、「前面(チエンミエン)!前面!("向こうだよ”)」と前方を指さした。尋ねた人は「謝々!」と礼を言いつつ前方に歩いて行った。果たして好かったのだろうか?「まあ、彼らが喜んで行ったんだから好かったんだろう。後は知らないよ!」と到って無責任で在る。
  遊歩道は長江河畔に突き当たる。漢口江灘公園で在る。整備された河畔に設置された公園で新緑が眩い。躑躅が咲き始めている。時間を持て余している様子の老人達の内の一人のお婆ちゃんが、奏でられる二胡の音に合わせて歌を唱っている。仲々好い声のソプラノで在る。孫を連れたお爺ちゃんが凧を上げようしている。・・・・・。あれ!ひょっとしたら此処は昔、来た処じゃ無いだろうか??何処か?見覚えがあるぞ・・・。
街角に佇む「湖北のビーナス」
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此の旅の余暇として書き上げた「ちょっとスケベな物語」は
          「愛と美の女神が下された狂艶と饗宴」
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  次第に記憶が蘇って来た。二十年否、もっと昔、中国で骨粉肥料工場を立ち上げようとして某商社の某課長と、其の商社の広州支店の某氏達と湖北食肉皮革製造有限公司を訪ねた。昼食後、公司の担当者達に案内して貰った河畔公園が此処では無かったか??彼の日の夕方、此処漢口江灘公園から武昌駅へ行き、貴州の肥料公司を訪ねる為に貴陽へ、27時間の火車の旅に出発したんじゃ無かったか????ちょっと、確かめてみよう。

  長江の水辺で、流水が運んで来る砂を掘り返している老夫が居た。仔細が徐々に判ってきた。公元2003年に河畔公園が出来上がった。以前は草原が広がっていたという。やはり、昔見た長江の河畔だったんだ。「長江の水は何時の日か?日本に流れ着くんですよ・・・」は、其の時に我々を案内して呉れた公司の若い担当者が口走った言葉である。
  長江と日本、遣唐使の昔じゃ無いが、この言葉は中国に来る度に想い出す言葉である。湖北の美女と知り合って彼女に対する愛??に発展し、互いに交流を深める迄に発展したのは其の後、何年かしてからで在る。
  斯うして彼女を見ていると彼女と私の縁の深さを改めて想った。長江が結んで呉れた幽愛の縁???かも知れない。

   長江灘に 三旬昔 想ひをり 此の水日本に 到ると言ひし人
入唐白文「白雲悠々」
我が落款は「喜寿の華仙入唐」
ー久々の中国は三千年の歴史再発見と
              三十年の想い出の旅だったー
 自然石に彫られた二つの落款、「喜寿花仙の入唐」と「大仙宗園」

  斯くして、歴史の深さを再確認し、30年昔の中国での想い出を振り返った筆者は、幽愛美女と別れて上海のホテルで三日間の唐土独り旅を愉しんだ後、中国東方航空747便は、無事に関西国際空港に帰国した。
  初めての関空の到着ターミナルの余りの大きさに大いに戸惑い、通りかかった若い空港警察官に道を尋ねた。「ご案内しましょう」とJR乗車券売り場に通じるエスカレーターの下まで連れて行って呉れた。ご親切な事ではあるが、「こう遣って、貴方と連れだって歩いていると覚醒剤密輸が見付かった爺さんが連行されている様ですね」と二人で大笑い。

  今回の中国旅行は天候による行き帰り共に延着更に、湖北の愛人美女は、「孫の世話と母親の喘息介護の為、早々に帰宅せねば為らない」とか?で、途中の黄石火車站で下車すると云う予期せぬ三つの不幸の重なった「入唐平成遣唐使」と為って終った。

  上海浦東国際空港の免税店で二石の落款を買った。一つは自分への土産で「喜寿花仙入唐」、他は大仙院老師への土産として「大仙宗園」と彫って貰った。連休の間ならお寺は拝観客で忙しい。何時なら、此の落款土産「大仙宗園」を貰って呉れるだろうか??
  また、京の都彷徨、「都の辰巳に棲まい」する生活が始まるぞ・・・・・。

      欠けし石に 喜寿の華仙 入唐と 彫らせて終えぬ 中国の旅