「閏餘りて歳を成す」”千字文の到来”
巻四の2
”えらい事を決意してしもうたわい”と其の深い内容の探求を始めた事を後悔したが”まあ、遣ってみようや”と気を取り直して翻訳を続ける。”そう言えば、中国の古書店で見付けた中国高等院校古籍整理研究工作委員会によって編纂された「中国古代教育文献叢書」の中に「千字文」が有ったわい”と捜し出して何とか、注釈書が出来上がった。筆者のフィーリング史学から編み出された考え方も所々に、「筆者按」欄を設けて挿入した。やっと完成である。
「千字文」が世に出されるや、蒙館熟{子供の手習い熟}の師匠達が教材として之を用い、児童の識字課本として書写され、社会の広範囲に流伝し、商人によって賬册されて忽ち、漢民族の人々の間に流布した。更に、「満漢対照千字文)」や「蒙漢対照千字文」が出現するに及んで、中国のみならず周辺国家にも広まった。日本では、胡曾の「詠史詩」、李瀚の「蒙求」と此の周興嗣の「千字文」の三著を合わせて、「明本拝字増広附音釈文三注」として販売され、「千字文」は寺子屋や武家の児童の為の習字や修身の教科書として重用された。
そう言えば、小学校の歴史の時間に、”朝鮮から渡来した王仁博士が「千字文」と「論語」を持ち込んだ。応神天皇の時代だった”と教そわった事を思い出した。”へえ、日本は朝鮮から字を習ったんや”とその頃、”朝鮮人!朝鮮人!・・・”と差別軽蔑発言を知らず知らずの内にして半島人を差別していた子供達が、筆者もその内の一人で在ったが、奇異に持った事を思い出す。
しかし、「千字文」の到来は凄い事件で在ったのである。文字の無かった我が国に文字が伝わり、文字による記録が行われ始める。聖徳太子によって「大王記」や「国記」等という歴史の編纂が国の事業として始まり、万葉集には民衆の想いを綴った歌集が記録される。其の後、草書を更に崩して平仮名が、「話し言葉」で在った日本語を「書き言葉」に変え、世界に冠たる識字国に為るので在る。
千字文は四字一句、全て異なる千字で構成される。四字一句は習字のお手本にはうってつけで半紙に四字上手く収まる。"昔の人は大したものだなあ。しかし、当時の中国にも習字と云うものがあったんだろうか?”と変な事を感心したものである。只、惜しむらくは其の頃は字の上達ばかりに頭が回って、中身の吟味迄は思いも浮かばなかった。毎夜、「天地玄黄 宇宙洪荒・・・・。」と部屋を墨で汚してお袋様に叱られただけであった。
その後可成りの時間を経て、中国語の会話を学び、三国志に興味を抱き始めてふと、千字文を思い出した。”や、千字文を一度、中国語で声に出して読んでみよう。ついでに何が書かれているのか、詳しく内容も知っておこう”と思い立った。辞書と検眼鏡を片手に読み始めた。なかなか味わいの深い、中身の濃い文章である。天地創造から始まって天体の運行、地の恵み、人事、歴史、自然果ては修身、日常活動に及ぶ人類の今在る全てが織り込まれた厖大な人勢が込められた文章である。古典から引き出された字句が至る所に散りばめられている。しかし、・・・。
「大仏殿回廊アトリエの墨摺り」
もう半世紀近くも昔の事で在る。当時筆者は、東大寺の元別当・故清水公照師に書を習っていて毎日曜日を大仏殿に過ごしていた。「東大寺大仏殿、昭和の大改修」で名を全国に馳せた第二百七世華厳宗管長、東大寺別当の公照老師も当時は、大仏殿の主管の職に在ってのんびりと、大仏殿の大回廊の一区画を「回廊アトリエ」と自ら名付け、筆を振り回しておられた。
書を習うと言っても、お手本を書いて頂いて家で稽古をして日曜日の午前中、師の自坊、東大寺の塔頭の一つ宝厳院にお邪魔をして清書したものを添削して頂く。御家族と一緒に御昼食のもてなしを受けて午後を大仏殿の回廊アトリエで墨摺りや紙切り、筆を洗ったり・・・、師の書を書くお手伝いをさせて頂く。帰路は興福寺境内を通って近鉄電車で大阪の我が家に帰る。此が筆者の週課であった。
其のお手本が「千字文」であった。師の手に為る楷書で在る。師が言われるには、"楷書をしっかり稽古しておけば、急いで書くと勝手に行書や草書に為る。無理に崩し方を練習しなくても好い。”と。成る程、型に嵌まった字体の草書で無く、筆者独自の草書が出来上がる。此れが個性で在ろうか???"何事にも拘りを棄てよ”という師の教えを表す一言である.。お手本の「千字文」は十一冊から為る字帖として残されている。字帖の第一冊目には"気張らず、焦らず、只其の儘に、縦横チョンチョンツーと筆を運んで行きましょう。毎日半紙五枚、其れでいい、其れで十分”とひらがなで書かれた師の讚がある。此の字帖は「縦横チョンチョンツー千字文」と名付ける宝物で在る。