「公は天威也。南人復背かず」ー完ー
     2007年6月19日
   在、遊蜘窟閑叔亭

  日本に漢の皇帝から貰ったという金印がある。「漢倭那国王」である。「魏志倭人伝」に日本人の存在が認められる何百年前か判らないが当時、日本は東夷の東の果ての倭と呼ばれる地域に巣くう部族国家が寄り集った国?であった。
  唐の時代、日本に帰る晁衡(阿部仲麻呂)を送る王維の詩に「・・・。万里空に乗る如く 国に向かうは惟だ日を看 帰帆は但だ風に信す 鰲身は天に映えて黒く 魚眼は波を射て紅 郷国は扶桑の外に 主人は孤島の中に 別離するは方に異域に・・・」とある。そんな扶桑の外の孤島の中まで皇帝の支配地であった。皇帝の支配が及んでいなければならない地であった、皇帝の許可を受けて倭地方の一部族国家那国の王が治める地なのである。それが「漢倭那国王」の金印なのである。
  此の考え方は少数民族にとっては迷惑な話である。彼等は先祖代々この地で平和に暮らしていた。国家も小規模ながら設立させて指導者もいた。其処へ突然、皇帝の使いが軍を率いてやって来る。"お前等は皇帝の民だ。皇帝の地に住まわせて遣っているのだ。朝貢をせよ。しなければ武力に訴えるぞ。”という。言われた方は何の事か判らない。”強い軍隊が来て土地を採り上げた。”と写っただけであろう。兎に角、考え方はどうであれ、漢族支配の中央政府は少数民族を統治するのにかなり手こずったようである。軍が進駐すると大人しくなる。軍が退くと暴れ出すという情況が昔から幾度となく、繰り返えされていた。太守として赴任した役人や官吏の中にはあくどく私腹を肥やした人も多くいたようである。

  益州を占領した劉備と孔明は、派遣する人材を選んで南夷人達の慰撫を計った。蜀漢国に棲む少数民族が居留している地域は西方と南中である。西は羌族の血を引く馬超の支配地であり、彼の努力で蜀国と戎族や羌族の関係は平穏に推移していた。
  西方に比べて南中方面は波風が絶えず、小さな叛乱の発生が絶え間なく続いていたが遂に、全面的な南夷諸部族の叛乱に到る。更に南夷人達の尊敬を集めていた勇猛な孟獲が兵を挙げるに及んで孔明自らの南夷征伐を決意させるのである。
  建興三年(西暦225年)春、曹丕の孫権攻めを確認した孔明は、諸臣が彼の身を案じて諫めるのを振り切って三月、軍を東路、中路、西路の三路に分け、自らは主力軍の西路軍を率いて南下を開始した。「出師の表」に看る、"・・。五月、瀘水を渡り、深く不毛の地に分け入る。・・・。”である。此の作戦はあくまでも、軍事制圧が目的でなく、安撫を主目的にして南夷の叛乱の基本的な解決を狙った "攻心為上、攻城為下”{心を攻めるを上策とし、兵を攻めるを下策とする。}に基本政策を置いた遠征であった。東路軍は馬忠を司令に、牂牁(今の貴州省遵義市)から南下し、中路軍は李恢が司令を務めて益州郡(今の雲南省昆明付近)の反乱軍を鎮圧する。主将の孔明は安上を経て越嶲郡に進攻した。反乱軍は蜀漢軍の進攻の前に分裂を起こし、東路軍と中路軍は安撫工作を順調に展開した。反乱の首謀者が相次いで死去して、孟獲の孤軍奮闘となる。五月、廬水の南、滇池付近で三軍が集結、孟獲と "七度孟獲を擒にし、七度放つ。”の故事に譬えられる戦いを経て、孟獲の言葉 "公は天威なり、南人復た背かず。”によって南征は終結する。
   "七度孟獲を擒にする。”という故事は "心を攻める”作戦つまり、南夷人に対する孔明の徹底した慰撫政策の成功を物語るものである。曲靖付近の孔明に纏わる沢山の遺跡や雲南省各地は言うに及ばず、カンボジアやタイに至る広範囲に残る "七度孟獲を擒にする。”の故趾の存在は孔明の "心を攻めて兵を攻めず”という政策が被征服民族にとって如何に歓迎して捉えられていたかを物語るものであろう。彼の慰撫政策が共存共栄の理想像として征服者,被征服者を問わず、あらゆる民族に歓迎されたかということである。彼の持ち込んだ中原の先進技術も南夷人達に歓迎され、南夷人の生活の安定に大きな効果をもたらした。しかし、大成功の陰には遠征軍にとって大変な労苦があったことは議論の余地がない。春三月に成都を出発し、秋七月に作戦を終了する。夏の酷暑の未開の地での作戦である。食中毒や水当たり,疫病等の辛苦は大変なものがあった。曲靖付近に孔明が刀で彫りつけたと伝えられる "毒水”の石碑が此の苦労を物語っている。
  孔明の「南征」終了後の南夷に対する慰撫政策は見事というより現代にも通じる、 "兵を留めず、食糧を運ばず。”を基本政策として、軍を駐留させず、統治には "其の首領を之に用うる。”事を旨として自治権を与えて少数民族と漢民族の融和に努力をした。その為に中央政府の制御が及びやすい行政区を設計した。又、彼等を統治する行政官の人選にも考慮した。南征作戦の司令を務めて南夷人の信望の厚い馬忠や李恢を派遣する。更に府城を味県、今の曲靖に置いて郡県制を布き、中央政府による行政官の監視を強化して地方官の不正や少数民族の不満の発生を防止する。行政官達は孔明の意を含んで諸民族の宗教や文化を尊重し、南夷人の慰撫に心を配る統治を行うのである。夷漢同和政策を採って族長や戦士を成都に招いて官吏や将に採用して中央政府に組み入れる。叛乱軍の首謀者、孟獲も後に孔明の重要なブレーンに加わっている。更に、漢代に行われていた部曲制度を復活して此の地にも屯田制を推し進め、部落の戦士を地方の行政体型に組み入れて平時は農耕、戦時は兵役の義務を課した。南夷人で一軍を編成して "飛軍”と命名する。此の軍は後に孔明の対魏戦線では最精鋭部隊の一つとしてずば抜けた活躍をする。南夷軍の編成は部落中心に行ったが、少数の部落出身戦士は漢人と混合部隊を組織して "夷漢部曲”と称した。此が夷漢融合に役立つ事になる。
  経済面では農業生産を挙げる為に水利事業、灌漑事業を押し進め、彼等が行っていた人力農耕を牛力農耕に変える等、中原の技術を導入して生産効果を上げた。雲南省に孔明が築いたといわれる堰が残っている。
  更に、南中地区の鉱業、商業の発展を重視して塩鉄官を派遣して塩井や鉱山を開発させ、生産を管理させる一方、橦華布{橦華の花を紡いだ布。}や丹漆等の特産品の育成を行う。金や銀、銅、錫、鉄等の採掘増産を計って当地区に経済基盤を作り、彼等に自立の道を与えた。
  雲南地区の少数民族の中には今でも、孔明を親しみを込めて "孔明老爺”(孔明爺さん)と呼び、銅鼓を諸葛鼓と称し、懿族が被る帽子 "編竹蘿”は孔明が教えたものと伝えられている。或る史書には”当地の人々が常食していた青菁を軍用食糧に採用して後に、人々は此を諸葛菜と称した。”と記されている。此等の逸話は孔明の名が好意を以て伝えられ、彼が当地区に残した恩恵の大きさを物語る。が、残念ながら時代が下るに従って、後の行政官達は当初の孔明の南夷統治理念を忘れ、南夷人達の経済基盤を剥奪する事が多かった。「華陽国誌」には "南中地区に産出される金、銀、丹漆、農耕牛、戦馬等が、絶えず成都に運ばれ、軍や国家に用いられた。”と直接、南夷人の生活に圧迫を加えていたことが述べられている。
  しかし、孔明の南西地区への貢献が後に、彼に纏わる種々の伝説を生み、数々の遺跡を残すのである。此処に視る孔明の占領地区への経済貢献、漢夷融合政策、異民族の文化や宗教の尊重、人種差別の撤廃等の統治政策は現代の我々にも大きな教訓を示すものである。寧ろ今、我々が学ばねばならない点が多い。
  いずれにせよ、孔明の「南征」は南夷人の心を掴み、民族団結の基本理念と人種差別の撤廃の思想を残して、成功裏に終わる。そして、いよいよ「北伐」へと、孔明最後の大勝負へと舞台は展開するのである。
                         2004年5月5日「一下万上」より


  構造改革、行政改革を成功裏に成し遂げ、国内の諸問題をかたづけて平安を得た孔明は劉備の死の際に託された最後の大仕事、「復漢」つまり、"魏王朝を討伐して蜀漢王朝による天下統一”を果たす為の北伐準備に取り掛かった。先ず、小さな反乱が頻発している南中地区の諸民族を沈静化させ、彼等の不満を解消して情勢を安定化せねばならない。南中地区は金や銀、銅、錫等の鉱山資源や農耕牛や戦馬が豊富に産出する。此等の物資は蜀漢国の国庫を潤す。更に、戦いに長けた彼等を味方に取り込む事は戦力の増強に結びつく。斯くして孔明自ら南夷討伐の出馬と為るのである。有名な「南征」である。
  当時の蜀の周辺には異民族が多く棲んでいた。此は今も変わらない。貴州省と雲南省は当時、蜀漢国の南中と呼ばれた地域であるが今も、白族や布依族、侗族、哈尼族、苗族、瑤族、彝族等の百万を越す人口を抱える民族から傈憟族や納西族等の五十万に満たない民族、更に阿昌族や怒族等の様に一万前後の、現在認められている中国全体の五十五の少数民族の内の二十五の民族が分布している。孔明の時代から今に至る長い歴史の間には絶滅した民族や人口が少ない為に一つの民族としての存在が認められず、大きな民族の内に含まれている小さな民族も実際には多数あるかも知れない。
  少数民族という呼び名を漢民族以外の諸民族に当てはめる事に筆者は多少、抵抗を覚える。長い歴史の間に征服され、同化され、力を失って少数民族と化しては居るが、昔は独自の文化や宗教を持ち、中央政府と戦うまでの力を有する部族国家を形成していた。今でも彼等の殆どは独自の文字や言語を持っている。史書にも、彼等が漢民族の中央政府と対等の力を持って大規模な戦争を起こした事を表す記載が見られる。我々日本人も東夷の更に、東の果ての民族,倭族の末裔といえる。但し、此処では漢民族以外の民族を総称して少数民族と呼ぶことにする。
  少数民族問題は、今日的な理解を当てはめれば民族紛争という言葉が当てはまる。当時、中国には国家の範囲を意味する言葉は無かった。中国の国とは世界を指す。中国という国家の範囲は存在しないのである。皇帝は全世界を統治する存在で、辺境という言葉は皇帝の直接統治が及ばない地域を指す。辺境も当然皇帝の支配地なのである。つまり全世界が中国なのである。少数民族も皇帝の民である。彼等の棲んでいる世界も皇帝の支配下で無ければならない。

「孔明の構造改革」巻二

表紙閑叔白文の「孔明夜咄」
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2,「公は天威也。南人復た背かず。」

ー孔明の南征を考察する(民族紛争)ー

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