「人間諸葛孔明」の発見巻二(2)

「一下万上」から諸葛孔明の戦略を考察する

漢兵已略地 四方楚歌声
大王意気尽 賎妾何聊生
      白文

「孔明最期の戦い」ー流星
 割落五丈原ー
へ続く。

「荊州奪還作戦」ー完ー

  関羽の弔い合戦を強硬に主張した張飛も部下に暗殺されるという事件までが、おまけとして劉備に襲いかかる。張飛は、関羽と共に劉備が義軍を起こして以来の盟友であり、桃園で生死を共にと誓った義弟が二人とも失われたのである。劉備が正常な判断を失うのは当然である。
  趙雲の反対は益州の国内が未だ定まっていなかったという推測を呼ぶ。此は劉備の関羽弔い合戦の東征に、勇猛で鳴る魏延を漢中に置いた儘、馬超も伴わず、一番活躍するであろう趙雲を後詰めとして蜀に残した事を見れば成り立つ。又、文武の重臣が東征に反対したのも、国内が定まっていなかった事を表しているのでは無いだろうか。当然、孔明は蜀国内の政治に没頭して蜀の豪族の帰順、治安、民心の安定を計らねば為らなかった。
  後に、"孔明は何故、負け戦と決まっている劉備の東征を反対しなかったか?当然、劉備を諫めて東征を思いとどめるべきであった。”と孔明の劉備東征に対する態度が問題にされる。結果論で結論付ければ当然、孔明は劉備を諫めるべきであろうし、東征は間違った作戦であった。しかし、劉備の進発前に誰が負け戦を予想し得ただろうか。呉に陸遜という名将が出現する事は誰も予測し得なかった。呉軍を率いる大都督、呂蒙は病床に就いている。斯くして劉備は八十万と号する大軍を率いて呉討伐に出発したのである。初期の戦いでは劉備は圧倒的に優利に戦いを進めた。呉にとっても劉備の東征は脅威であった。
  筆者は、孔明が劉備を諫めてストップをかけるどころか、逆に彼は東征推進派、賛成派に立場を置いたと思う。劉備が皇帝に即位して権力の頂点に立ったと言っても、如何に狼狽していたと言っても、これほどの重要な問題は勝手に決め得る事は出来ない。文武百官の協力が要る。孔明が幾ら内政に没頭していたとしても劉備が、彼に一言も相談をせずに重要事を決める事は無かったと思う。荊州の重要性を思えば、どうしても取り戻したい。まして、孔明は丞相の地位に在り、政権の中心に坐っている男である。
  話しは少し遡るが漢中争奪戦で、陽平関に劉備と対峙していた曹操が急ぎ、「鶏肋」という名文句を残して漢中撤退を決め、大軍を率いて自ら洛陽に戻る慌て振りと、孫権に支援を求める使者を送るという対応振りは関羽軍の北進の意義が如何に大きいかを示しており、此処でも孔明の曹操攻略大作戦の影が伺える。「鶏肋」とは鶏ガラの事で、"肉は無く食う所は無いが棄てるには惜しい。”と漢中に対する曹操の思い入れを表す。関羽が劉備や孔明に相談もせずに独断で北進軍を発するとは思えない。此の関羽北進作戦が孔明の指導に依るものとすれば、其れに続く劉備の関羽弔い合戦「東征」、呉攻めの本当の意味は荊州回復に在って孔明が関わっていた事の証明になる。
  後の世の先生方は、孔明を完全無欠な存在にしておく為に彼がこの遠征には口を閉ざして反対した。として彼の汚点を庇っているのでは無いだろうか。此の敗戦の後、"法正さえ生きておれば・・・。”という孔明の言葉を研究家達は "法正が居れば劉備の東征を止めて呉れたのに・・・。”と解釈する。しかし、筆者は逆に "法正が生きて居れば、蜀国の内政は法正に任せて自分は東征軍の総参謀長として劉備に同行して敗れる事はなかったのに。”という孔明の愚痴に聞こえる。
  ともあれ、劉備は趙雲を後詰めに置いて呉班、馮習、張南の各将軍に領された三軍団を率いて馬良を参謀長に、黄権、程畿等の参謀を従えて進発した。初戦以来、留まる事を知らず進撃する。稀帰を陥し、涿郷を攻略して更に東進した。対する呉の大都督、陸遜は徹底した撤退作戦を採って劉備を荊州深く誘い入れる。夷陵と夷道の間の彪亭で劉備軍と陸遜軍は対峙する事になる。夏の炎天下、劉備の軍に厭戦気分が起こっている事を知った陸遜は、其れまでの隠忍侍従戦術を一転して火攻めによる攻撃で蜀軍に壊滅的打撃を与えて劉備の東征は失敗に終わる。  劉備は命辛々白帝城に逃げ込んだ。劉備の敗退を知った趙雲は直ちに出陣し、巫県付近に軍を展開させる。陸遜は此を見て追撃を止めて兵を展開、両軍対峙の形をとる。やがて、孫劉間に和睦が出来上がって陸遜は撤退する。この時、劉備の東征は万に及ぶ多数の死者を出して終了した。完膚無きまでの敗戦であった。劉備が生き残っただけでも幸いであったといわねばならない。劉備は此の直後、生気を失って寂しい病死を迎える事になるのである。

  「三国演義」には追撃して来た陸遜が、孔明の築いた石塁「八陣の陣」に填り込み、孔明の岳父黄承彦によって救い出される場面が不可思議な描写で描かれている。此は趙雲軍との対峙、更に馬忠に率いられた応援部隊の参戦で陸遜の引くに引けない、進むに進めない状況を述べたものかも知れない。此の後直ぐ、陸遜の進言によって孫権は、鄭泉を使者として白帝城に籠もる劉備に停戦と孫劉同盟の復活を提案する。劉備の死後、蜀の実権を握った孔明の大英断で第二次孫劉同盟が再締結されるのである。「三国演義」に述べられる陸遜の救出の場面は孔明の意を受けた岳父黄承彦か、或いは孔明と親しい荊州の名士の誰かが対峙戦で進退極まっていた陸遜に、孫劉同盟復活の重要さを説いた事を著しているのかも知れない。第二次孫劉同盟の締結後の孔明と陸遜の付き合いの深さは尋常なものでない。後に、丞相の地位に就いていた陸遜に、孔明は兄諸葛瑾の家系の庇護と存続を依頼した事が彼の書簡に残されている。
  何にせよ、落ち着いている蜀の国内がこの敗戦によって、動揺し始める可能性は充分あり得る。曹操の後を継いだ曹丕が動き出す可能性もある。それ以上に、先ずは陸遜の進撃を巫県付近で、くい止めて被害をこれ以上大きくせず、劉備の健在ぶりを内外に示さねばならない。幸い国内は孔明の治世の宜しきを得て治まっている。国内や北の漢中には魏延と馬超の軍は健在で魏に睨みを効かせている。これらの情勢を考慮すれば、長江沿いの東部戦線の防衛が最重要課題であった。まして敗戦のさなかである。孔明が陣頭指揮を執って策謀をめぐらせたことは充分推測に価する。

  以上が劉備の東征の顛末である。筆者は何度も繰り返すが、関羽の死は、呉の動向を無視した孔明の作戦ミスが原因であり、劉備の東征は、劉備と孔明の荊州回復を願う理由から起こった作戦であったと思う。そうとすれば、孔明は関羽を殺したのみか、劉備の死をも招く戦略上の大失敗を犯したと言えるのではないだろうか。彼の此の後の、異常な迄の劉禅への忠誠振りや国家への献身、余りにも執拗な「復漢」、対魏作戦への執着は劉備の死を招いた責任を感じる余りの、功を焦る心から発した行動だったのであろうか? 
  とんでも無い想像に行き当たったものである。

2,荊州奪還作戦 ー劉備の東征ー

  劉備の死を早めた「東征」つまり、関羽の弔い合戦について少し、考察したい。後の世の学者先生は劉備の「関羽弔い合戦」に対して孔明は反対の意見を持っていたと謂う説を提起し、孔明反対説が定着している。筆者は著書「一下万上」で此の説に異を唱えた。筆者の異を唱えんとする理由を披露したい。
  関羽の北進、死については既に記した。此の時期、長年同盟関係に在った呉政権とは外交が重要な岐路を迎えている事を考えると、孔明は益州に長居するつもりはなく、益州穫りの作戦が終了し次第、荊州に戻って益州から発する劉備の本隊と呼応して関羽を先鋒に北に向かい、曹操を伐つつもりであった事は推測される。
  関羽が戦死し、荊州を失ったことは劉備政権にとって、大きな痛手であった。関羽という敵、味方を問わず畏れ、尊敬されている豪傑を失ったばかりでなく、孔明の説く大戦略、益州と荊州の二方面からの魏攻撃つまり、隆中策戦術が不可能になったのである。
  劉備と孔明が慌てて荊州回復計画の立案を命じた事は想像に難くない。しかし、彼等は多数の文武諸官から反対を受ける事になる。劉備や孔明に最も忠実な趙雲までが荊州討伐に反対したのである。この時、龎統は既に亡く、龎統の後継軍師として漢中で活躍した法正も亡くなっている。