公元228年(蜀漢;建興6年、魏;太和2年、呉;黄武7年)
春:諸葛亮魏討伐を実施、開戦する。褒斜道(斜谷道)を通って郿県に進出、或いは子午道を経て直接長安進出を計るも孟達が司馬懿に亡ぼされ、急遽作戦を変更、超雲、鄧芝の軍を疑軍として斜谷関に配置、自ら大軍を率いて祁山に進出。南安、天水、安定の三郡を魏から蜀に帰属さす。此の戦い中、後に諸葛亮の軍事後継者となる魏の天水郡の参軍姜維蜀に降る。街亭で魏将張郃の進出を迎え撃った馬謖大破され、北伐軍全軍漢中に撤退、諸葛亮の第一次北伐終わる。
諸葛亮"涙を揮って馬謖を斬り”自ら三等を貶して右将軍と為り、丞相事を行する。
冬十二月:諸葛亮陳倉道を北上して第二次北伐を挙行。要衝陳倉を囲むも落ちず、撤退、帰路追撃する魏将,王双を討つ。
是の年:諸葛亮の嗣子喬軍中に卒。

  公元229年(蜀漢;建興7年、魏;太和3年、呉;黄龍元年)
春:諸葛亮第三次北伐。陳式を遣って武都、陰平の二郡を攻略。魏の雍州刺史郭淮迎え打つ。諸葛亮建威に進出し、郭淮を撤退させ、武都,陰平の二郡を回復。
後主劉禅、諸葛亮を丞相に復職さす。李厳、諸葛亮に "必ず錫を受け、爵を進め王と称せよ。”と九爵の譽の授受を勧める。諸葛亮拒絶。
是の年:諸葛亮戦争の間隙を縫って漢中に漢城、楽城の二城を築く。
四月:呉の孫権皇帝位に就き、黄龍と改元。九月:建業(今の南京)に遷都。諸葛亮衛尉陳震を派遣して祝賀し、対魏攻守同盟を締結。

  公元230年(蜀漢;建興8年、魏;太和4年、呉;黄龍2年)
秋八月:魏の曹叡曹真の漢中進撃策 "数道併せ入る。”の建議を採用する。司馬懿は西城より、曹真の主力軍は子午道に由り、其の余は褒斜道(斜谷道)と建威を経て漢中に進攻を計る。全軍合わせて二十万。
諸葛亮楽城に敵を待ち受け、李厳に二万人の兵を率いさせ漢中に駐軍をさせる。魏の大軍大雨の為、道路、桟道が冲断され、漢中進撃成らず撤退。
諸葛亮魏延等に命じ西羌に入る。

  公元231年(蜀漢;建興9年、魏;太和5年、呉;黄龍3年)
2月:諸葛亮再び祁山に出る。"木牛”を以て糧草を運輸。第四次北伐を挙行。自ら軍を率いて祁山より上邽{今の天水市}に進軍。魏将郭淮、費曜を撃ち、司馬懿の主力軍と上邽の東で対峙する。司馬懿険に居して守りを固め交鋒せず。諸葛亮祁山に向かって退く、司馬懿之を追う。
5月:諸葛亮、鹵城の付近で司馬懿軍を撃破する。
6月:蜀軍李平{厳改名}の失職で糧食が尽き漢中に向けて撤退。木門に到って、追撃する魏将張郃を”損益弩弓”によって射殺。諸葛亮上表して李平を弾劾。

  公元232年(蜀漢;建興10年、魏;太和6年、呉;嘉禾元年)
諸葛亮漢中の黄土地帯で大規模な屯田を行い、糧食確保に努力 「休士勧農、教後講武」。「木牛」を改良して「流馬」を製作。「損益弩弓」の改良、更に 「八陣」つまり陣形の完成等、二年間大規模な北伐の準備を行う。
此の前後:諸葛亮懐と果の二人の女誕生。*「孔明の愛と苦悩」(三)ー武侯の愛した美人姉妹ー参照

  公元233年(蜀漢;建興11年、魏;青龍元年、呉;嘉禾2年)
冬:諸葛亮軍用糧米麦を斜谷口に建設された "斜谷邸閣”に収める。着々と大規模な北伐準備整う。

  公元234年(蜀漢;建興12年、魏;青龍2年、呉;嘉禾3年)
2月:諸葛亮十万の軍勢を率いて褒斜道(斜谷道)より斜谷口に進出。第五次北伐開始。糧草のは改良された 「木牛」、「流馬」に依って "蜀の桟道”を経て行われる。
諸葛亮五丈原に軍営し、司馬懿率いる二十万の魏軍と渭水の南に対峙。諸葛亮兵を分けて屯田を行い、長期対峙戦に備える。司馬懿堅く守って出ず。両軍の対峙百余日に及ぶ。*「孔明の戦略考察」”孔明最期の戦い”ー流星割落五丈原ーを参照。
8月:諸葛亮病を発し、8月23日五丈原の軍営に病逝。享年54歳。*”「臨終の遺表」を考察する。”を参照。
蜀軍の参謀楊議、費褘、姜維等、諸葛亮の臨終の指図通り、撤退作戦を実施、亮の遺骸を奉じて軍を退き、斜谷に到って喪を発す。
諸葛亮遺命に従って漢中の定軍山に葬らる。後主劉禅諸葛亮に諡して "忠武侯”と為す。

  公元224年(蜀漢;建興2年、魏;黄初5年、呉;黄武3年)
諸葛亮 "務農殖谷 閉関息民”政策で、叛を平らげ北伐を準備する。
夏;孫権張温を蜀に派遣。諸葛亮鄧芝と費褘を呉に派遣、以後呉,蜀間に使節絶えず、同盟強化される。
是の年:諸葛亮夫人黄正英と弟均、成都に来着。更に諸葛瑾の次男諸葛喬を成都に招き、諸葛亮家を継嗣させる。年21歳。

  公元225年(蜀漢;建興3年、魏;黄初6年、呉;黄武4年)
三月:諸葛亮、自ら兵を率いて南中四郡に南征。秋、師を滇池に会して南中を平定。*、「孔明の構造改革」ー公は天威也、南人復背かずーを参照
12月:諸葛亮成都に凱旋。孟達の帰順の書を受け、北伐の準備を急ぐ。

  公元226年(蜀漢;建興4年、魏;黄初7年、呉;黄武5年)
5月:魏;曹丕卒。享年40歳。子曹叡即位、年23歳、史称魏の明帝。
諸葛亮 "励兵講武”して北伐準備。

  公元227年(蜀漢;建興5年、魏;太和元年、呉;黄武6年)
三月:諸葛亮軍を率いて討魏を計る。第一次北伐開始。漢中に駐屯。臨行前、後主劉禅に「出師表」を上げ、劉禅名義で下詔、討魏動員令を発布し、自身勢を率いて出征する詔を拝受する。長史張裔と参軍蒋琬に丞相府事を統管さす。
諸葛亮長子瞻生まる。嗣子喬、附馬都尉を拝し、亮に従い漢中に従軍。

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「諸葛亮(孔明)年表ー完ー
  2007年6月23日
  在、遊蜘窟閑叔亭

「諸葛亮(孔明)年表」巻二

”諸葛氏大事年表より”

ー兵どもが夢の跡(2)
         {公元224年(孔明44歳)~234年(54歳)}

桜花!桜花!
易霞易霞懐愛霞 看雲彩雲想亮起
春来花開遙々遠 我心深裏爾隠棲
         白文