「諸葛亮(孔明)年表」巻一

”諸葛氏大事年表より”

  公元181年(漢霊帝光和4年)
諸葛亮(字は孔明)琅邪郡陽都県に生まれる。漢の司隷校尉光禄大夫諸葛豊(公元前108年~前33年、琅邪郡諸県葛陂生)の後代。父は泰山郡の丞諸葛珪(公元153年~192年)母は章氏。

  公元194年(漢献帝興平元年)
諸葛亮父の死後、叔父玄に随って襄陽に移り、襄陽郊外の「学業堂」に学んで司馬徽に師事。

  公元197年(建安2年)
諸葛亮叔父諸葛玄の被殺により南陽郡鄧県隆中に移って躬耕隴畝(自ら丘の田を耕す)。此の頃、徐庶や孟公威らと交友、感化を受ける。龎徳公や馬良等荊州の名家の知遇を得、自らを管仲、楽毅に準える。自らの進路を「一下万上」”一人に仕え、万民を治める”と唱える。

  公元202年(建安7年)
諸葛亮沔南の名士で荊州の宿老黄承彦の女黄正英を娶る。

   公元207年(建安12年)
劉備司馬徽と徐庶の推荐を受けて親しく隆中に諸葛亮を訪ねる(三顧の礼)。「隆中策」つまり「天下三分の計」を献策。劉備の激請に応じて山を下る。劉備47歳、諸葛亮27歳。

「諸葛亮(孔明)年表」巻二に続く。

  公元208年(建安13年)
曹操軍南下、劉備と諸葛亮城を焚いて南に奔り、当陽で曹軍に打破される。呉の参軍魯粛当陽で劉備と諸葛亮に遇い、孫劉同盟を提言。
10月:諸葛亮紫桑に往く。孫権を説き、孫劉連盟成る。共に曹軍に抗する。
11月:「赤壁の戦い」、曹操、破れて襄陽に敗走。
12月:劉備軍を率いて南下、武陵、長沙、桂陽、零陵の四郡を占領。諸葛亮を軍師中郎将に任じて零陵、桂陽、長沙の三郡を督せしめる。諸葛亮臨蒸に駐屯。

  公元211年(建安16年)
益州の牧劉璋張松の建議を容れ、軍議校尉法正と孟達を派遣して劉備を迎える。劉備龎統、黄忠、魏延等数万の軍勢を率いて入蜀、葭萌に註軍。 

  公元214年(建安19年)
劉備雒城を囲むも落ちず。龎統箭に中たって死す。享年36歳。
年初:諸葛亮関羽に荊州の留守を預け、張飛、超雲等を率いて長江を遡って入蜀。兵を三路に分けて沿途の郡県を平定しつつ前進。
夏:雒城陥落。劉備成都を囲む。諸葛亮軍を率いて成都攻略戦に参戦。成都開城。劉備益州の牧と為り、諸葛亮軍師将軍と為って左将軍府事を行い、治蜀を開始する。「孔明の構造改革」ー1800年前の「構造改革」ーを参照

  公元215年(建安20年)
秋七月:曹操漢中を破る。11月:張魯曹操に降る。
此の年:孫権中司馬諸葛瑾(孔明の兄)を派遣、荊州の返還を求めるも、劉備拒絶。
孫権呂蒙を派して長沙、零陵、桂陽の三郡を襲い取る。劉備兵を公安に下し、孫権を攻めんと欲するも、曹操兵を帯して漢中に入るを聞き、湘水を境界として荊州を互いに分占する事で講和する。 
  公元218年(建安23年)
劉備法正、張飛、黄忠、魏延等を率いて漢中に進撃、陽平関に進出する。夏侯淵、張郃等と対峙。
諸葛亮、成都で治蜀、構造改革終わり"食足り兵たる。”。漢中攻略を支援。

  公元219年(建安24年)
春正月:劉備陽平関より南に汅水を渡り、定軍山に営を築く。黄忠、夏侯淵を斬る。
5月:曹操 "鶏肋は喰らうに不味く、棄てるに惜しき。”と漢中維持の難しさを鳥がらに譬え、兵をまとめて長安に帰陣。劉備漢中を定める。
7月:劉備、漢中王を称する。
8月:関羽、曹操の武将,曹仁を樊城に囲む。于禁の領する七軍を大破し、龎徳を斬る。
10月:呂蒙、虚に乗り、江陵を襲い取る。孫劉同盟破局。
11月:関羽、退兵して麦城に籠もる。
12月:関羽、麦城に破れ、捕縛され所殺。荊州、呉に帰属する。*「孔明の戦略考察」ー関羽の北進と名馬「赤兎馬」ーを参照。

  公元221年(蜀;章武元年、魏;黄初2年)
4月:劉備皇帝位に就く。史称蜀漢昭烈帝。諸葛亮を以て丞相と為す。
7月:劉備関羽の仇に報わんと軍を率いて東下、呉を伐つ。諸葛亮、成都に留鎮。呉:孔明の兄呉の綏南将軍、南郡太守諸葛瑾書簡を以て劉備に、"大局を重んずれば呉に対する用兵は不要”と諫める。劉備聴かず。

  公元222年(蜀漢;章武2年、魏;黄初3年、呉;黄武元年)
閏六月:劉備呉将陸遜に夷陵で大破され、白帝城に退走。白帝城を永安宮と改名。*「孔明の戦略考察」”荊州奪還作戦”ー劉備の東征ーを参照。
12月:孫権鄭泉を白帝城に派遣、和を請う。劉備亦宗瑋を呉に使う。呉蜀国交恢復。
是の年:孫権曹丕より呉王の称号を与えられ、元号を黄武と改元。此より三国設立。
諸葛亮張飛の死去を以て司隷校尉を併せ領する。

  公元223年(蜀漢;建興元年、魏;黄初4年、呉;黄武2年)
2月:諸葛亮、成都より永安宮に到り、托孤{劉禅の後見}を受命する。*、「孔明の愛と苦悩」(二)ー劉備の死に臨む「托孤」の考察ーを参照
4月:劉備永安宮(白帝城)に崩御。享年63歳。劉備の死去を聞いた孫尚香京口で長江に投身自殺。享年34歳。
5月:太子劉禅成都に即位。年17歳。建興と改元。諸葛亮を封じて武郷侯と為す。諸葛亮丞相府に治事を開設し、政事は大小に拘わらず悉く自身で決する。此の頃、益州の牧を領する。
夏:南中諸郡叛乱、諸葛亮新ためて劉備の大喪を営み、派兵を増強せず。
冬10月:蜀;諸葛亮鄧芝を呉に使いして呉との同盟を恢復。
是の年:魏の華歆、王朗、陳群、許芝、諸葛璋各々書簡を以て、諸葛亮に蜀を藩と称して魏への臣従を勧告、亮書簡 "正義”で之等に答え、断固拒絶。

ー兵どもが夢の跡(1)ー
          {公元181年(孔明1歳)~223年(43歳)}

想爾懐汝帰故郷 乗鳥馳雲随東風 
西來長江遡上流 心已離身到故郷
        白文題