鉄に限らず金、銀、錫等の鉱山も開発されて蜀漢王朝の重要輸出産品と為り、国庫を潤した。錫は今でも四川省に多く産出する。朱堤に産出する銀は純度が高く、他地方で産出する銀に比べて1.8倍の高値で買い取られた。孔明は精塩工業や製鉄工業に対して国家管理機構を設立し、「司塩校尉」、「司金中郎将」の職を設けてこれらの資源を国家の独占事業とした。

  「蜀錦」で有名な蜀のシルク工業は早くから、此の地方に発達していた。東漢時代の墳墓から「桑苑の図」や「織機の石刻」が発見され、当地のシルク工業が早くから普及していた事が判る。彼は蜀錦の重要性に着目をし、特別に「錦官」という官庁を設置して専門にシルク工業を管理させた。成都の別名「錦官城」は此処から来る。「臨終の表」には、彼の家に八百株の桑が植えられていると彼自身が述べる。「後漢書」には曹操が "人を派遣して蜀錦を買い求め、宮中の礼服に用いた”という記載がある。当時、蜀錦は全国に知られた特産品で、蜀の経済立て直しの切り札となった。孔明の書簡にも次の様に述べる。

   *、"今民は貧しく国力は虚弱である。敵との戦いで勝ちを決する源資は、惟だ蜀錦に仰ぐのみ”

  貨幣の鋳造も手がけた。"官市”という市場を設立して専任官吏を派遣し、徹底した市場価格への介入を行って諸物価の安定を計った。湖北省や雲南省で見付かる"直百銭”の銭弊は彼が創ったものである。
  この様に農業生産の向上、塩、鉄、錦等の資源、特産品は蜀の経済発展に大きな寄与をした。銭弊の発行と徹底した市場価格の管理によって物価が安定した事は、戦乱に疲れ果てていた蜀の経済を建て直した。そして、
  "政は民を安んずるを以て本と為す”という孔明の統治基本理念が諸政策に反映された結果、構造改革は三年で成功裏に終わり、蜀漢国は "食足りて兵足る”という安定さと富裕さを得た。

  一方国家統治では、徹底した法令厳守、信賞必罰を旨とした政策を施行して、長期の馴れ合い政治に染まっている富豪、官吏に臨んだ。彼等の私利益は其の儘、国家の府庫に影響し、民衆の生活に反映され、国力に影響を及ぼす。上記の経済建て直しの実現の為にも避けて通る事が出来ない問題であった。此の当時、"罰は三世に及ぶ”とされ、罪を犯せば一族全員が処罰された。孔明は賞罰を厳粛に執り行ったが、加罰は罪を犯した本人に限り、家族に罰を及ぼす事を廃止した。また、権威や地位に囚われず厳粛に加罰を執り行った。悔い改める機会も与えたという。法令に従って厳粛に賞罰を執り行い、感情に左右される事は無かった。今日では当然の事であるが、当時は画期的な事で在った。

   *、"我が心は秤に似て、誰に対するも公平也。此を重く、彼を軽く為すは無し”

  更に、孔明は人材育成にも力を尽くた。成都に最高学府の大学を開設して蜀漢国の次代を担う若者の育成を行った。古文、経学、儒家の経典を主要過程とし、天文学、史学等を学ばせた。「三国志」の作者で大史家の陳寿も此の大学に学んだという。孔明自身も天文、兵法、古今のあらゆる学問に通じていた。
  面白い事は、孔明が自身の著書「便宜十六策」に、”国家の大学に学んだ者を官吏に登用しては為らない”と説いている。つまり、”東大卒は官僚にするな”と言う。”国家の大学に学ぶエリートは党派を作り、貧しい人々を侮蔑する”のが理由である。彼は民間に隠れている賢人を尊敬していた。
  孔明が著したとされる兵法書「便宜十六策」と「将苑」は今の社会に充分当てはまる。時代が移ろうと人間は進歩しないのか?、孔明の考え方が普遍なのかは判らない。
  当時は現在のように三権分立は無く、皇帝が絶対的な権限を持つ。孔明は構造改革を徹底し易かった。皇帝或いは丞相の名を持ち出せば好かった。しかし、絶対的な皇帝の権限を持たない彼が、構造改革を推し進める為には、厳粛な法令の執行に頼らざるを得なかった。中央集権が崩れた時、中央の権威が崩れて地方政権が強く為った時、統治が緩む時、国が乱れ、民の苦しみが始まる。権力、権威の維持が欠かせない前提条件で在る。
  孔明に反対した人、反発した人もいたであろう。彼は厳しく法令を執行して官吏の意識を変え、民間の人徳ある人を積極的に登用して民衆を救い、抵抗勢力の人々をも政権に参加させて経済政策を推し進め、疲弊しきった国を短期間で建て直すのである。彼はリストラを推進したか?失業者やホームレスを街に溢れさせたか?

  若し可能なれば、日本の指導者はステイーブン ホーキング博士の謂う "時空のチューブ”{ワームホール}を通って1800年を遡り、孔明に会って直接教えを請うと好い。

    「孔明の構造改革、経済政策」ー完ー                     

  塩と鉄は益州の重要産品であった。経済発展には欠かす事が出来ない資源である。中国の奥地には塩分を含む地層が多い。蜀地方の精塩業は西漢王朝の時には既に、各地に塩井が掘られていた。製塩技術も熟練していて或る地方では已に、火井{天然ガス}が燃料として使用されていた。蜀地方の塩は"井塩”とも"煮塩”とも呼ばれ、井戸を堀って上部に滑車を備えた塔架を組み、塩水を汲んで塩鍋に移し、塩水を煮て塩を採取した。此の井塩と同じ塩は"湖精塩”の名で日本でも売られている。恐らく "胡井塩”が元の名称であろう。此の湖精塩を使った料理を食べたが円やかな、柔らかい味が印象に残っている。海水から採る塩に比べて苦味、刺激するものが感じられなかった。モンゴル産と云うが、製法は井塩と同じであろう。十米から二十米の井戸に湧き出す塩分濃度の高い塩水から水を蒸発させて塩を採るという。孔明時代の製塩方法とさほど変わらない。

  中国には各地に鉄鉱石の鉱山があって、露天掘りが今も行われている。此は孔明の時代も変わらない。蜀の周辺にも鉄鉱石が埋蔵されている山が多く、兵器や農機具を鋳造していた事が多くの史書に記載される。孔明は鋳鉄官に鋳鉄技術に精通した者を選んで兵器や農機具の品質改良を目指した。鋳鉄官の郭達は一夜に三千本の箭を打ち、"神手”と称されて将軍に封じられたという。鋭利な兵器の改良は軍の強化に貢献し、製鉄技術の発達は農機具に改良が加えられて農業生産に大いに役立つ事になる。今も昔も軍事技術の発達が一般の生活機器の改善に繋がる事に変わりがなかった。

「孔明の国家統治」巻三
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「屁放き老師三国志に遊ぶ」孔明篇

巻四の2

”武侯・諸葛孔明の治国と国造り”第二篇

千八百年昔の構造改革と経済政策(巻二)