劉備と孔明が、荊州回復計画の立案を命じた事は想像に難くない。彼等は多数の文武諸官から反対を受ける事になる。劉備や孔明に最も忠実な趙雲までが荊州討伐に反対したのである。この時、龎統は既に亡く、龎統の後継軍師として漢中で活躍した法正も亡くなっている。関羽の弔い合戦を強硬に主張した張飛も部下に暗殺される事件までが、劉備に襲いかかる。張飛は、関羽と共に劉備が義軍を起こして以来の盟友であり、右腕、左腕の義弟が二人とも失われたのである。劉備が正常な判断を失うのは当然で在った。
趙雲の反対は益州の国内が未だ、定まっていなかったという推測を呼ぶ。劉備の東征に、勇猛で鳴る魏延を漢中に置いた儘、馬超も伴わず、一番活躍するであろう趙雲を後詰めとして蜀に残した事を見れば成り立つ。文武の重臣が東征に反対したのも、国内が定まっていない事の証明では無いだろうか。孔明は戦乱に荒れ果て巴蜀の再建と劉備政権の基礎固めに没頭して、国の安定を取り戻さねば為らなかった。
後世、"孔明は何故、負け戦と決まっている劉備の東征に反対しなかったか?劉備を諫めて東征を思い留めるべきであった”と、孔明の劉備東征に対する態度が問題にされる。結果論で云えば、孔明は劉備を諫めるべきであるし、東征は間違った作戦であった。しかし、劉備の進発前に誰が負け戦を予想し得ただろうか。呉に陸遜という名将が出現する事は誰も予測し得なかった。呉軍を率いる大都督、呂蒙は病床に伏していた。
筆者は、孔明が劉備を諫めてストップをかけるどころか、逆に彼は東征推進派、賛成派で在ったと思う。劉備が皇帝に即位して権力の頂点に立ったと言っても、如何に狼狽していたと言っても、これほどの重要な問題は独りで決断出来る問題では無い。文武百官の協力が必要で在る。孔明が幾ら内政に没頭していても劉備が、彼に一言も相談をせずに重要事を決める事は無かったと思う。荊州の重要性を思えば、取り戻さねば為らない。まして、孔明は丞相の地位に在り、政権の中枢に坐わる男である。
話しは少し遡るが、漢中争奪戦で陽平関に劉備と対峙していた曹操が急ぎ、「鶏肋」という名文句を残して漢中撤退を決め、大軍を率いて洛陽に戻る慌て振り更に、孫権に支援を求める使者を送るという対応振りは、関羽軍の北進が如何に大きい影響を及ぼしたかを示す。孔明の曹操包囲攻略大作戦の影が伺える。
「鶏肋」とは鶏ガラの事で、"肉は無く食う所は無いが棄てるには惜しい”と漢中が蜀攻略に如何に重要なる要衝かを表す。また関羽が、劉備や孔明に相談もせずに独断で北進軍を発するとは思えない。関羽北進作戦が孔明の指導によるもの或いは、裁可を得たとすれば、其れに続く劉備の関羽弔い合戦「東征」、呉攻めの本当の意味は荊州回復に在って孔明が関わっていた事の証明になる。
後世の先生方は、孔明を完全無欠な存在にしておく為に彼がこの遠征に口を閉ざして反対した。として彼の汚点を庇っているのでは無いだろうか。敗戦の後、"法正さえおれば・・・”という孔明の言葉を研究家達は "法正が居れば東征を止めたのに・・・”と解釈する。筆者は逆に "法正が生きて居れば、蜀国の内政は法正に任せて自分は東征軍の総参謀長として戦に敗れる事はなかったのに・・・”という孔明の愚痴に聞こえる。
ともあれ、劉備は趙雲を後詰めに置いて呉班、馮習、張南の各将軍に領された三軍団を率いて馬良を参謀長に、黄権、程畿等の参謀を従えて進発した。初戦以来、留まる事を知らず進撃する。稀帰を陥し、涿郷を攻略して更に東進する。対する呉の大都督、陸遜は徹底した撤退作戦で劉備を荊州深く誘い入れる。夷陵と夷道の間の彪亭で劉備軍と陸遜軍は対峙する事になる。夏の炎天下、劉備の軍に厭戦気分が起こっている事を知った陸遜は、其れまでの隠忍侍従戦術を一転して火攻めによる攻撃で蜀軍に壊滅的打撃を与えて劉備の東征は失敗に終わる。劉備は命辛々白帝城に逃げ込んだ。劉備の敗退を知った趙雲は直ちに出陣し、巫県付近に軍を展開させる。陸遜は此を見て追撃を止めて兵を展開、両軍対峙の形をとる。やがて、孫劉間に和睦が出来上がって陸遜は撤退する。この時、劉備の東征は万に及ぶ多数の死者を出して終了した。完膚無きまでの敗戦で、劉備が生き残っただけでも幸いであった。劉備は此の直後、生気を失って寂しい病死を迎えるのである。
「三国演義」には、追撃して来た陸遜が孔明の築いた石塁「八陣の陣」に填り込み、孔明の岳父黄承彦によって救い出される場面が不可思議な描写で描かれる。此は趙雲軍との対峙、更に馬忠に率いられた応援部隊の参戦で陸遜の引くに引けない、進むに進めない状況を述べたものかも知れない。此の後直ぐ、陸遜の進言によって孫権は、鄭泉を使者として白帝城に籠もる劉備に停戦と、孫劉同盟の復活を提案するので在る。劉備の死後、蜀の実権を握った孔明の大英断で第二次孫劉同盟が締結される。「三国演義」に述べられる陸遜救出の場面は、孔明の意を受けた岳父黄承彦か或いは、孔明と親しい荊州の名士の誰かが対峙戦で進退極まっていた陸遜に、孫劉同盟復活の重要さを説いた事を表すかも知れない。第二次孫劉同盟の締結後の孔明と陸遜の付き合いの深さは尋常なものでない。後に、丞相の地位に就いていた陸遜に、孔明は兄諸葛瑾の家系の庇護と存続を依頼した事が彼の書簡に残されている。
何にせよ、落ち着いている蜀の国内がこの敗戦によって、動揺し始める可能性は充分あり得る。曹操の後を継いだ曹丕が動き出す可能性もある。それ以上に、先ずは陸遜の進撃を巫県付近で、くい止めて被害をこれ以上大きくせず、劉備の健在ぶりを内外に示さねばならない。幸い国内は孔明の治世の宜しきを得て治まっている。魏延と馬超の軍は健在で魏に睨みを効かせている。これらの情勢を考慮すれば、長江沿いの東部戦線の防衛が最重要課題であった。孔明が陣頭指揮を執って孫劉同盟復活を成し遂げた事は充分推測出来る。
以上が劉備の東征の顛末である。筆者は何度も繰り返すが、関羽の死は、呉の動向を甘く見過ぎた孔明の作戦ミスが原因であり、劉備の東征は、劉備と孔明の荊州回復を願う作戦で在った。そうとすれば、孔明は関羽を殺したのみか、劉備の死をも招く戦略上の大失敗を犯したと言える。彼の此の後の、異常な迄の劉禅への忠誠振りや国家への献身、余りにも執拗な対魏作戦への執着は、劉備の死を招いた責任を感じる余りの、功を焦る心から発した行動だった可能性も在る。 とんでも無い想像に行き当たったものである。
劉備が失意の死を迎える「東征」つまり、関羽の弔い合戦について少し、考察する。後の世の先生方は、劉備の「東征」に対して孔明は、反対の意見を持っていたと謂う説を提起し、孔明反対説が定着している。筆者は著書「一下万上」で此の説に異を唱えた。筆者の異を唱えんとする理由を披露したい。
関羽の北進の時期、長年同盟関係に在った呉政権との外交が重要な岐路を迎えていた。また、劉備の宿願で在る「全土の統一」という事を併せて考えると、孔明は益州に長居するつもりはなく、益州穫りの作戦が終了し次第、荊州に戻って益州から発する劉備の本隊と呼応して関羽を先鋒に北に向かい、曹操を伐つつもりであった事が推測される。
関羽が戦死し、荊州を失ったことは劉備政権にとって、大きな痛手であった。関羽という敵、味方を問わず畏れ、尊敬されている豪傑を失ったばかりでなく、”孔明の説く大戦略、益州と荊州の二方面からの魏攻撃と云う「隆中策」戦略が根底から覆り、「三国鼎立」戦略と云う消極策に戦略転換をさせなければ為らなかった”と云う事に為る。。
「屁放き老師三国志に遊ぶ」孔明篇
巻三の2
武侯・諸葛孔明の戦略戦術第二篇
2,荊州奪還作戦 ー劉備の東征ー