此の時期の孔明は、其れまでの戦いが屡々、失敗に終わらざるを得なかった諸問題の原因を先ず取り除こうと多忙であった。彼は"木牛”と"流馬”という物資の輸送機器を充実させ、輸送訓練を行う等の輸送問題の解決を計り、屯田を押し進めて大規模な開拓事業を展開して食糧を確保し、「斜谷邸閣」と名付ける巨大な倉庫に食糧を備蓄して進撃軍の食糧不足の解決を計る。更に、軍事教練を行って兵の強化に勉め、軍の戦闘力を強化させた。此等の政策を実行する一方、同盟関係に在る呉国の皇帝孫権に使者を送り、時期を同じくして魏討伐の北上軍の派遣を依頼して同意を得、長安攻略体制を築きつつあった。孔明は此の年の年齢は五十二才、未だ未だ元気旺盛な年齢で在った。
  男は仕事が忙しい時に充実感を得るものである。孔明も、元老派との権力闘争を切り抜け、後継者達へ権力委譲も終えて生涯で最も充実した人生を謳歌していた時期に在った。仕事の傍ら、子作りにも励んだ。此の年、二人の女の子をもうける。諸葛懐と諸葛果である。彼女達の母御は多分、漢中の有力者の娘達であった。何かと人の目に付きやすい成都から離れていた事で孔明もふと、女が欲しくなってもおかしくはない。男は何歳になっても色心が消えないという事で在る。筆者も頑張らねば・・・・・。

  中国語に「陪嫁」という言葉がある。"ベイジヤ”と発音して花嫁道具、花嫁衣装の意味を表す。しかし、古代には違う意味で使われていた。貴人が嫁を娶る時、其の嫁に子供が出来ない場合に備えて、嫁の一族から別の娘が一人、附けられる習慣が有った。多くの場合、妹が此の役を買わされた。つまり、姉妹共に嫁ぐのである。中国の古典に此の習慣に就いての記載が多い。日本でも此の様な風習が貴人の間には行われていた事を知る。大海人皇子{後の天武天皇}には、兄の天智天皇の二人の娘、太田皇女と鸕野皇女つまり、鸕野讃良{後の持統天皇}が嫁いでいた。天武天皇と太田皇女の死後、自らの血統を継がせる為に鸕野皇女が天皇位に即位する。大いなる権力を有して明日香の宮に君臨した女帝・持統天皇である。
  封建社会には、貴人が旅先に留まると其処で夫人を娶る習慣があった。土地の豪族や氏族の族長が、自らの家の権威を高めようと、貴人との血縁を得る為に娘達に伽をさせた。日本でも貴人が旅先で宿を取った場合、娘を夜伽に差し出して身の回りの世話をさせる習慣が行われていた。今の男女同権社会では想像も出来ないような風習であるが、男尊女卑の封建時代、男系の血の継続が重視され、女系は認められなかった時代である。今日本では男系、女系の天皇位の継続が話題に上っている。男系支持者は皇位二千年の伝統を守るとべし、と主張をされているが、封建制の伝統を守ろうと言うのであろうか?人々の時代を把握する意識が大きく移っていることを認識されておられのか?筆者の様な単純な頭脳には理解し難い主張である。余談が過ぎた。

  諸葛懐と諸葛果の母達は、陪嫁の風習に従って孔明の身辺に侍らされた姉妹であったと想像する。彼女等は此の二年後、夫の孔明の死に遭遇する。幸いにも夫の墓陵は彼女たちの居た漢中の定軍山に設けられた。後に、孔明の正妻、黄正英が此の墓陵に追葬される。彼女等姉妹も孔明の墓陵の近くに埋葬されたのあろうか??彼女たちと子供達の消息は残されていない。しかし、蜀漢王朝の第一の功労者である孔明に纏わる者として、彼女達が粗末な扱いを受けたとは考えられない。
  また、孔明が都の成都でなく、鄙びた漢中の更に、片田舎の定軍山に葬られる事を遺言したのは、"遺骸に為ろうとも、対魏作戦の最前線に在って蜀漢王朝を守る”という孔明の忠誠の心と、"魏を睨み続ける”という「復漢」の決意を表すものであるという見方が定説に為っている。しかし、孔明自身は、漢中の此の姉妹に対する愛が深く、彼女達から離れ難たかっただけかも知れない。最晩年に、もうけた二人の娘への不憫さから漢中を去り難かったかも知れない。若しそうとすれば、真面目一徹と伝えられている孔明の人生に血の通った人間味溢れる、従来の孔明と違った孔明を見い出す事が出来て嬉しくなるが、如何なものであろうか。
  不届き者と叱られそうであるが、筆者は人間味溢れる暖かい心を持った孔明の方が好きである。彼女達の様な、歴史の表舞台に登場しない陰の歴史、特にか弱い女性の哀しい故事に大いに興味をそそられる。わざわざ 「武侯の愛した美人姉妹」と題して此のページを付け加えたのは筆者の女好きの性格、恋に対する憧れに因るものである。

  孔明の葬列を見送って二十九年後、彼女達の爸々が建てた蜀漢王朝が滅ぼされ、更に晋王朝によって三つの国に分裂していた中国が再び統一されて一つの国になるという激動の時代が彼女達を襲う。未だ此の時代には、諸葛懐と諸葛果の異母姉妹も,、彼女達の媽々姉妹も生存していたと思われるが、彼女達に纏わる言い伝えは記録に見る事が出来ない。恐らく、彼女達は中国の片隅の漢中の田舎で、息を潜めて世の移り変わりを眺めていたと思われる。
  陜西省の漢中市周辺には彼女達、二代に渡る姉妹、従妹に纏わる言い伝えが今も、残されているかも知れない。機会が有れば是非とも一度、訪ねたい所である。

「屁放き老師三国志に遊ぶ」孔明篇

孔明の愛と苦悩(人間孔明の発見)第三篇

武侯の愛した美人姉妹

  "流星割落五丈原”と後世、謡われた孔明の壮絶なる臨終を迎える事になる建興十四年(公元234年)の二年前から翌年にかけて、孔明は魏王朝との最後の戦いに臨むべく、前線司令部を漢中に設けて、最後の北伐作戦の準備に多忙な時期に在った。
  漢中
{今の陜西省漢中市}は蜀漢王朝の都成都から大巴山脈を越え、また魏王朝の首都長安からは秦嶺山脈の山々を貫いて縫う細い街道と険しい谷の崖に架けられた「蜀の桟道」と呼ばれる橋道で隔てられた地である。しかし、蜀から中原に進出するにも、長安から蜀に進軍するにも必ず通過せねば為らない戦略的要衝である。
  此の十四年前つまり、建安二十三年に巴蜀を攻め取って足場を固め、中原進出の足掛かりを築こうと此の地に進出してきた劉備軍団と、一足先に、此の地を占拠していた張魯教団を破って更に、余勢を駆って劉備軍団を破って巴蜀を手に入れ、長江を下って呉王朝を攻め、一挙に天下統一をしようと目論む曹操とが直接、定軍山に大軍を対峙させて一年間の死闘を演じた事実を見ても漢中が如何に重要な
戦略位置を占めていたかが伺える。

  今回の孔明の作戦は、此までの祁山に進出して背後を固め、秦嶺山脈の北麓を通る天水街道を経て、中原に出るという迂回作戦ではなく、秦嶺山脈を蜀の桟道で貫いて北上する褒斜街道を通り、関中平野に直接進出して魏の首都長安を攻略して魏王朝と雌雄を決しようという大規模な作戦計画で在った。

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孔明の愛と苦悩ー完ー

巻二の3