劉備と孔明は襄陽での挙兵以来、十六年に及ぶ"水魚の交わり”を続けて来た仲で劉備にとって孔明は我が子のような存在であった。劉備には孔明の腹の中は全て見通しであった。孔明にとっても、二十才年長の劉備は幼い頃、死んだ父に代わる存在であった。劉備の武将達、文官達が孔明に心酔したのは、劉備の孔明への信頼が有ったればこそである。劉備の存在が無ければ孔明が此処まで活躍出来たかどうか疑わしい。更に、孔明が劉備や曹操の立場になり得るか、つまり 「将の将たり得るか?」と考えた場合、"否”と答えざるを得ない。「資治通鑑」に彼の秘書官,楊顕が、孔明が全ての文書を保管して忘備録を付けているのを諫めて、「政はそれぞれの担当者に権限が在り、それぞれ担うべき役割が有る。」と彼の小事にまで関わる態度を戒めたという。恐らく何から何まで自分で裁量しなければ気が済まない質であった事は十分想像出来る。孔明自身も自分の性格は十二分に認識していた。青年時代に友人に語った「一人に仕え、万人を治める。」(一下万上)という言葉でも明らかである。苦労をして今の地位を築き上げた劉備には、孔明のこのような性格は先刻承知であったであろうし、"息子に取って代われ。”という臨終の言葉は、劉王朝に忠誠を願う劉備の孔明に対する最後の牽制の言葉であったかも知れない。「孔明さえ味方にしておけば、他の者は何も出来ない。」と考えたかも知れない。
  劉備の言葉に対する孔明の返事は、彼の本心から出た言葉であろうと想像する。彼の此の後の、何から何まで決済せねば気が済まない性格と仕事に取り組む態度が後に胃を壊し、五丈原で血を吐いて戦没する事になるのである。

  当時、劉備の重臣や蜀王国の豪族達に孔明はどのように思われていたのか。彼の多くの書簡を読むと、心から心服されていたようには思えない。当然、心服しない重臣や豪族は僅かであろうが。「三国演義」や多くの「三国志」に纏わる小説とは違う様に思える。劉備の死後、彼は重臣達と凄まじい権力闘争を展開する事によって丞相としての地位を確立するのである。沢山の重臣を糾弾する書簡が残されている。劉備健在なりし時も、無き後も劉備の信頼無しには彼の政治手腕は発揮され得無かった。
  劉備の「我が子の出来が悪ければ、君が位を取っても好い。」という言葉は、孔明に与えられたと同時に、多くの文武の臣下に与えた「孔明は自分の蜀漢王朝の統治に於ける後継者である。」というお墨付きでも在ったのである。

  多くの文武の臣の反対を押し切って呉に攻め込み、呉の名将陸遜に大敗を喫して白帝城に逃げ込んで寂しい死を迎えた劉備は居並ぶ重臣を前にして孔明に遺言をしたと伝わる。「卿の才は、曹丕の十倍也。必ずや国を安んじて大事を定むる事必定。若し嗣子輔すに可なれば、之を輔せ。もし才無くば、卿が自ら之を取る可し。」と。
  此の劉備の死に臨む言葉は凄い言葉である。「自分の息子の出来が悪ければ、帝位を簒奪してもかまわないと。否、簒奪して蜀漢王朝を守って呉れ。」と言ったのである。此の言葉を聞いた孔明はさぞ驚いた事であろう。側にいた重臣達も固唾を飲んで孔明の返答に聴き耳を立てたに違いない。我が子が可愛くない親はいない。劉備も人の子である。息子に地位を譲りたいと思っていたに違いない。今の世でも、一代で事業を成し遂げた社長が出来の悪い息子を後継者にして会社を危機に陥れる事が多い事を考えれば当然である。まして当時は封建制真っ直中の時代で在った。劉備が息子、劉禅を後継者に選ぶのは当然であったし、孔明を始め、文武の臣達もそう思っていた。孔明は 「臣如何に敢えて力を尽くし、心を尽くさざるやあらん。忠貞の限りを尽くし、死に至るも止めん。」と答え、劉備親子への変わらぬ忠誠を示して重臣達の猜疑の眼を切り抜けた。
  筆者は劉備の「自分の息子が出来が悪ければ、皇帝の位を君が取れ。」という言葉は、劉備の最後の賭であったと思う。孔明の声望は若い劉禅よりも当然高い。否、劉備以上かも知れない。息子、劉禅の皇帝としての地位を脅かす可能性の有る者は、丞相の地位に在って蜀漢王朝を統治している孔明以外には無い。孔明は並の天才でなく軍事、治政、外交更に、経済政策どれをとってみても非の打ち所が無い。「最も信頼を置く事が出来た義弟の関羽と張飛の無き今、劉家が頼りとする者は孔明以外にはない。何らかの手を打って置かなければ死んでも死に切れない。」と劉備は考えたかも知れない。

「孔明の愛と苦悩3」ー孔明の
愛した美人姉妹ー
に続く。

「人間諸葛孔明」の発見巻一(2)

「一下万上」から諸葛孔明の人間性を考察する

孔明の愛と苦悩(二)

劉備の死に臨む「托孤」の考察