「人間諸葛孔明」の発見巻一(1)

  此の遺書で孔明は、遺して逝く一族の安全と諸葛家の安泰、末代までの継続を皇帝・劉禅に、彼が持っている皇帝としての絶対権力に委ねたと思う。為るほど、彼は蜀漢王朝の丞相として十四年間を国家の絶対的な指導的立場に置いて君臨して来た。又、彼の薫陶を受けて彼の路線を引き継ぐ後継者が沢山、政治や軍の中枢に居座っている。とは云え、彼が厳しい法律の執行、権力闘争で政治生命を断った反対勢力の元老派の人々は未だ、生存している。何時、彼等が息を吹き返すか分からない。反対勢力がのさばり出すと、孔明の息の係った者はどうなるか分からない。真っ先に潰されるのは孔明の一族である。
  今から五六十年前に中国で起こった文化大革命がよい例である。此の運動では劉少琦や鄧小平等の改革派の指導者が権力闘争に敗れて抹殺されたり、地方へ流された。しかし、最高権力者の毛沢東と親密な関係に在った周恩来は改革派にも拘わらず、指導力を有した儘で此の混乱の時代を無事に潜り抜けたのである。孔明の路線に反対する勢力が復活しようとも、劉禅が皇帝の地位に在る事は変わりない。皇帝の庇護が有れば、孔明の一族は安全である。彼は死に臨んで一族の命運を皇帝、劉禅の存在に賭けた。
  此の文章の前半部の劉禅に教えを垂れる毅然とした文に比べると、"臣の成都の家には・・・・。”から始まる後半部は弱々しく、哀しい雰囲気に満ちている。筆者は、此の後半部の文章に彼の本音が述べられていると思う。"臣の成都の家には・・・・他に一点一滴の収入も無い。”とわざわざ、孔明自身が国家への忠誠心だけで生き、何の野心も持たなかった事を強調して最後に、"・・・・・陛下に伏して願い上げ奉る。”と結ぶ。筆者には此の「臨終の遺表」の文の裏に、死を目前にした孔明の哀しみ、苦悩、遺す家族への深い愛が言い尽くされている様に思えてならないのである。

  孔明の教え子の後継者達による彼と其の家族に対する尊敬と皇帝、劉禅の孔明に対する敬愛と庇護によって諸葛家の子孫達は守られ、長子の諸葛瞻と瞻の長子、尚は蜀漢王朝の滅亡時の忠義さで名を残し、尚の弟、京は一時、河東郡に蟄居させられていたが、孔明を厚く尊敬していた三国を統一した晋王朝の初代皇帝、司馬炎に見出されて勅令、"才に随い、吏に就く可し。”によって召し出され、郿県の県令を経て江州の太守に為る程の立身を遂げるのである。
  時代を経て三国を統一して晋王朝を建てた司馬氏は代々、孔明を尊敬する心が厚く、諸葛氏の人々は東晋、西晋時代を通じて大事に取り扱われ、多くの高官が一族から登用させられた。初代の武帝{司馬炎}に諸葛婉が夫人として入宮し、司馬炎の叔父琅邪王司馬伷の夫人も輩出する。

  此の遺表のお陰かどうかは知らないが、諸葛氏は今も棲息を続けている。公元1991年、浙江省蘭渓市に孔明の子孫が暮らす "諸葛鎮”という村が孔明の子孫と認定された。人口、5,000人のうち8割が諸葛姓を名乗っている。およそ千年前、孔明から数えて14代目の子孫の諸葛浰が四川省より県令として赴任し、一族の村が形成された。今、諸葛鎮には孔明以来、47世代から55世代の人々が住んでいて、世代の上の人を目上として敬う伝統が今も受け継がれているという。51代目の二十歳代半ばのお嬢さんが十代の男の子(49代目)に、"おじいさん・・・・。”と呼びかけ、"彼は若いが私のお祖父さんよ。”と。照れくさそうな少年の様子がテレビに微笑ましく映し出されていた。
  緒葛鎮の大公堂には"武”と"忠”の文字が大きく書かれ、孔明が子孫に残した家訓という「誡子書」が掲げられている。

  「夫れ君子の行は、静を以て身を修め、倹を以て徳を養う。淡泊に非ずんば明志ならず、心静に非ずんば達成遠し。夫れ学は静なり、才は学なり。学非ずんば広才ならず、志非ずんば学成らず。怠慢即ち精励する事能わず、拙速即ち性を治むる事能わず。年と時は馳す、意と月日は去る。遂には老に到りて、世間相容れず、悲しく貧家を守るに到る。以て復,如何に及ぶや。」

  村人達はこの戒子書の一節を家毎に門扉に貼って自らを戒めるという。大公堂には歴代の官吏になった孔明の子孫達の「進士」の額が沢山掲げられている。「貧しくとも学問によって身を立て,世の為,人の為に尽くす可し。」これが諸葛鎮の人々に代々、受け継がれてきた教えであるという。
  孔明の子孫達は、孔明が目指した「民衆が安心をして平和に暮らせる秩序を取り戻し、民衆の為の国を作り、理想の政治を行う。」という千八百年に到らんとする彼の教えを今尚、忠実に守っているかの様である。                                     

「一下万上」から諸葛孔明の人間性を考察する

李白一斗詩百篇 
白文一升拙十吟 
今宵有客飲唱酒 
異邦友情忘故郷
     白文題

  建興12年(公元234年)諸葛亮・孔明は五丈原で司馬懿・仲達率いる魏の大軍と対峙する最前線に在った。睨み合いも半年を経た秋、胃を病んでいた彼は己の死を察して後帝劉禅に書を送る。「臨終の遺表」である。孔明の遺言で在る此の文を読んで彼の最期の意いを考察したい。現代文に翻訳した原文は次の通りである。

  「臣亮、此処に伏して申し上げます。私、亮が思うに、自分の性格は拙直で今、此の艱難の時に軍を興して北伐を行っていますが、未だ、完全に勝利を得る所には至っておりません。しかし、私の何年間かの持病は、既に不治の段階にまで進行し、寿命は旦夕{今日明日の意。}に迫っております。私、亮が伏して陛下に願い上げる事共は清心寡欲に務め、此処に述べる事柄を己の心に約束をして果たして頂きたく存じ上げます。其れは万民を愛する事、先君への孝道を永遠に堅持する事、遍く天下の人々に仁慈の心を施す事、埋もれている人材を抜擢して賢才、有能な人を任用する事、讒言や奸邪な者を排除して風俗を純厚に守る事々で在ります。 
  私の成都の家には桑が八百株、痩せた土地が一千五百畝有ります。子孫の衣食に給するには充分で、余りが出る程です。私自身は外の任務に就いているので調度品も無く、身に着ける衣食は悉く、国家から支給されております。他に何も営みは無く、一点一滴の収入も有りません。もし、私が死んでも我が家に対して有り余る衣帛の下賜や墓陵の建造等、国家の散財に繋がる事は無用にして頂きたく、陛下には此の点を宜しくお願い申しあげます。」

  此処には千八百年もの間、献身的な偉業を讃えられた孔明の姿は無い。病の床に伏して死を目前にした一人の男が其処にいるだけである。未だ一人前に為っていない息子や妻更に、教え子を残して往かねば為らない男が一人其処に居るだけである。半生を理想の実現に費やした偉大な男の影は微塵もない。14年間、主君劉備と共に国家を造り上げ、更に主君から後事を託されて14年間、自身が作り上げた国家の政治、経済更に軍事迄をも牛耳っていた男の影は見えないのである。遺書を読んで不謹慎かも知れないが、偉大な孔明も一人の人間だったんだと嬉しくなった。

「孔明の愛と苦悩2」ー劉備の臨終
「託孤」を考察するー
に続く。

1,孔明の有名な書簡「臨終の遺表」を考察する。

孔明の愛と苦悩(一)

「臨終の遺表」考察ー完ー