時代は少し、下って李大師、延寿父子によって編纂された南朝各王朝の歴史書「南史」によれば、"東晋王朝、安帝の義熈(ぎき)九年{413年}に倭王讃{日本書紀には履中天皇、古事記には仁徳天皇と記載}が使いを派遣して朝貢する”という記載が在り、此の後公元502年に到る90年間に20回前後、"珍{反正天皇に充当}、濟{允恭天皇}、興{安康天皇}、武{雄略天皇}、倭の五王による南朝諸王朝への朝貢、册封が繰り返された”とある。
其の後の倭国に付いて中国の史書を紐解くと・・・・。唐の貞観三年{630年}に姚思廉が成立させた「梁書」には、「其の後復た男王立ちて、並んで中国の爵命を受く」と、臺與を後嗣して男王が倭王に即位し、臺與と共に晋王朝の皇帝から「倭王」の爵命を受けたことが記されている。
五代の後晋王朝の劉?の手になる歴史書「旧唐書・東夷伝」には面白い事が書かれる。其れは、”倭国とは古の倭奴国で在る。・・・・・・日本国は倭国とは別の種族である。日本は東方の日が昇る位置に在るので「日本」と名乗り或いは、倭国は自ら名が雅で無い事を嫌って日本と改名した或いは、日本は曾て小国で在ったが、倭国の地を併合した”と述べる。此の「旧唐書」の文章から、二つの重要な歴史的事実が読み取れる。一は、倭国は昔から中国に朝貢をしていた倭の奴国つまり、北九州に在った邪馬台連合国家を指し、倭国と日本国は別所に存在した種族の異なる国家で在った。日本国は日が昇る東方に在った”事実。二つ目は、倭国が「倭」という名を嫌って「日本」と国号を改め、昔は小勢力に過ぎなかった日本国{大和政権?}が倭国を併合した”と云う。
筆者は敢えて日本国を大和政権と想像したが、中国の史書の記す日本国が”大和に所在した国家、大和政権を指すか”は更なる研究が必要である。倭国から見て日の昇る地つまり、"東方に在る、日の昇る地に所在する国家で在る”とのみ、読み取れるからである。
宋代に欧陽脩によって1060年に編纂された唐王朝の正史「新唐書」には、「日本と云う小国を倭国が併合し、其の名を名乗る」。又、「筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となった」と記載される。「神武が大和を云々」の後に歴代の天皇名が記されるが、此の文言は「日本書紀」を転記したもと思われる。
此処に記される「倭云々」或いは「倭王」と云う文字から考えるに、「新唐書」の"倭が日本を併せ、国名を日本と変号した”と思われる。「旧唐書」にも"倭が其の名を悪(きら)って「日本」に改名した”と載る。
斯くして、晋王朝の武帝の泰始二年{266年}の壹與の晋王朝建国祝賀朝貢、其の後の男王の倭王即位と爵命授受から、東晋王朝安帝の義熈九年{413年}の倭王讃の朝貢の間の約百五十年足らずの間に、日本列島が統一された事が想像される。此の統一を果たした国は倭国で在るか?旧小国日本国で在るか?は両唐書の記述は相反する記載であるが、日本列島が此の百五十年の間に何等かの手段で統一され、中国南朝の各王朝への朝貢と皇帝から册封を賜った大王達によって支配が確立され、前方後円墳文化が日本列島を覆ったと想像される。
「屁放き爺さん昔~しのお噺」寝物語第三
「晋書」武帝紀に、晋王朝建国間際の泰始2年11月5日の項に"倭人来たりて方物(特産物)を献ず。倭の女王重譯(ちょうえき、通訳を介せず話す)して貢献する”という記載があり、新王朝の建国に敏感に反応して建国を祝賀すると同時に、朝貢をして"倭国の代表者としての地位の保全を保証して貰う”と云う倭国の新女王壹與のしたたかな外交努力を知る。晋書は続ける、"円丘と方丘を南北郊{郊:天地の祭祀、冬至は南郊に、夏至には北郊に詣る}に併せ、二至(冬至と夏至)の祀りを二郊{南北郊}に合わす{従来、場所を分けて冬至と夏至に行っていた祀りを南北郊、一箇所で行い始めた}”と述べる。此の記述は卑弥呼の陵墓の完成と大規模な葬儀の様を報告すると同時に、前方後円墳の興りつまり、従来に無い墓陵の造営と祭祀の開始が覗われる。
「魏志倭人伝」は倭国に就いての記述であり、魏の使節或いは、役人が実際に倭国を旅して得た我が国を紹介した文書である。それ以降は今まで記載してきた通りの倭国の朝貢、其れに対する冊封の記録である。此等中国の各王朝の史書に加えて、朝鮮半島の述べる記録を加えて、邪馬台国以降の我が国の歴史。聖徳太子が登場して開始される以前の、嬰児の我が国の歴史を考察しようと思うのである。
以下、「Prologue To Japan Birth」巻四に紹介したいので今、暫くお付き合いを願いたい。
朝鮮半島と倭国の関わり
Once Upon A Time For Japan Birth巻三
此の頁では嬰児の日本を語る中国の史書を紹介し、筆者のフィーリング史学に則った日本、大和政権の誕生を考察する材料としたい。三世紀の日本、邪馬台国は筆者のHP「女王国飄々」に詳しいので此のhHPは「魏志倭人伝」の後の時代の日本を中国の史書に述べられる断片的な文章を紹介したい。