枝垂れ梅と猪口咲樹椿
朝、ふと思い立って城南宮に詣でる。しだれ梅満開の神苑。匂いが沸き立ち、苔一面の梅園に散り敷いた紅白梅の花びらが更に、匂いを放つ。しかし、筆者は入り口近くの椿の散歩道の方が好かったと思う。「詫び助」種の楚々とした小振りの猪口咲きの花が好い。京都南インターの直ぐ、南に所在するという交通の不便さが祟るのか?参拝者は、私ら夫婦も交えてお年寄りが多かった。
そう言えば、茶の宗匠をしていた伯父貴に聴いた事、「作庭は建物の北側に和庭を造り、南側は柴庭などにして陽が当たるようにする。木の枝は南に向って伸びて葉は南側に茂る。南側が庭の正面だよ。だから、北側に庭を置いて南から鑑賞する。此れが庭園鑑賞の原則だよ」と。城南宮は伯父貴の説の通りに作庭が為されている様で在る。
曲水の宴が催される平安の庭も、桃山時代に作庭された庭園も城南宮の北側の塀に沿って、建物の北側に置かれ、建物の南側は芝生庭が、宮苑に広く、明るい印象を拝観者に与えていた。 平成29年3月14日(火、曇)
城南宮 紅白枝垂れる 梅の香の 苔むす苑に 散り敷き匂ふ
露地脇に 紅き椿の 花一輪 遺(を)く苔岩や 早春の宮杜
猪口咲きの 詫び助椿 楚々と咲く 城南宮なる 春の宮苑
「或る愛の唄」琵琶弾く西施
亡父母の墓参りと南宗寺参拝
堺市の父母の墓参りと京都引っ越しの報告の為、早朝に家を発つ。出勤時間の京阪特急と地下鉄は乗客が多く、坐れる処では無かった。更に、墓園に行く一時間に一本のバスは、出た直後で在った等の支障に遭遇しつつも、無事に墓参りを終える事が出来た。「そうや、今日は彼岸の入りだった。しかし、お母ん、"何年も放ったらかしにして・・・”と、怒ってるで!・・・・」。墓を前にした女房との会話で在る。墓園を後にバスで、南宗寺に向かった。
何年も 放ったらかしにと 雑草抜きて 亡母に詣でき 彼岸に入るけふ
花間一酔
「都の辰巳に棲まいして・・・・」第一編
法界寺 檜皮の弥陀堂 阿弥陀様 お薬師も 我が家から廿分
日野富子 生れし里の 弥陀薬師 苔むすお堂の 歴史に埋もりて
古の 荘厳偲ばす 弥陀堂の 飛天柱画 艶な彩り
日野村は古、日野家の領地で足利義政の北の方、日野富子は此処に生まれた。後、足利将軍の後継争いの原因を作ったか?或いは、捲き込まれたか?何れにせよ、京を焼き尽くした応仁の乱は、管領家の畠山氏の世継ぎ問題に端を発し、将軍義政の柔縦不断な態度で混乱を発展させ更に、地方の有力大名が都に招かれて戦いを大きくし、遂には将軍家跡目相続の混乱が原因で十一年にも及ぶ、全国の大名が東西に別れて戦った。此の乱で京都の街特に、中京が焼き尽くされ、多くの遺跡文化が失われた。応仁の乱は結局、手腕高き将軍義政の御台所、日野富子が将軍家を夫足利義政に代わって牛耳って乱を終了に導いた。彼女は稀代の悪女と伝えられ更に、乱に加わった大名や店を焼き出された町衆等に復興資金として貸し出した利息や米の投機などで70万貫(70億円)の巨財を蓄えたと云われる。しかし、真相は藪の中で在る。筆者は、日野富子は悪女では無く、統治能力の無い夫義政に代わって足利将軍家の権威を守り、応仁の乱を収めた賢女で在ると思いたい。 平成29年3月20日(月、晴)
「先の戦争って、応仁の乱でっせ」
面白い話が在る。或る研究者が近衛文麿氏に或る古文書の存在を訊ねた処、元首相曰く「先の戦争で焼失しました」と。「疎開させなかったんですか?」。「先の戦争って応仁の乱でっせ」・・・・。この話は満更、笑い話でもない。今でも「先の戦争」を、京都の人の2%は「応仁の乱」を指し、3%は「蛤御門の変」と答えるらしい。京都新聞の受け売りで在る。話は尾関老師大仙院に代わる。
「大仙院門前の三本の古樹」
大仙院の門前の五葉松は天皇の御手植えとか。楚々とした山門の内、玄関に到る短い参道の脇に三本の木が植わっている。菩提樹と山法師、沙羅の三樹で在る。「菩提樹は釈迦つまり、佛を表し、沙羅は朝に咲き、夕に散る。色即是空つまり、法を表し?山坊師は僧で在ろう」と想像した。尾関御老師への手紙の一部・・・。
「御門内の三本の木について、私には「お前等なあ!大仙院に参拝する心とは何じゃ・・・」と御老師が下される「一喝」に思えます。お玄関の「喝」の字を眺める度に、此の様に感じます。其処で、我が答えは・・・。
沙羅は「朝に咲き、夕ベに散る。色即是空をつまり、法を表し、菩提樹はマガダ国で正覚を得たお釈迦様の禅定の場つまり、佛を・・、山法師は御老師の象徴つまり、僧を表す」と存じます。「佛、法、僧の三宝を指す」と説きます。此の問答を得て、方丈に抜ける御門を観て厳粛を心に整え、玄関に進んで「喝」を頂き、石庭に対座して黙考する。考え過ぎ?かも知れませんね。」
菩提樹に 沙羅山法師は 仏法僧を 表す為らん 大仙院の門
女房の73回目の誕生日
「お前も、皺くちゃ牛蒡(ごんぼ)の婆さんに為ったなあ」。しかし、彼女の増歳に応じて、筆者も年を取るから文句は言えない。「俺も爺さんだよなあ」と鏡を見て納得した日曜の午後で在った。 平成29年3月19日(日、晴)
「日野法界寺(日野富子女史と親鸞さんの生誕地)」
我が家から爪先上がりの道を行くと、宇治との境を為す山並みの麓に近い段丘に在る法界寺に到る。御本尊は藤原様式の丈六の阿弥陀如来座像、其れを護持する檜皮葺の阿弥陀堂と共に国宝に指定されている古刹である。薬師堂には秘仏薬師如来立像が安置され、共に重文である。池には、蓮の新芽が水面に突きだしている。夏はさぞ、見事な蓮が咲く事だろう。筆者は、法界寺の様な静かな寺が好みである。此の様な歴史を語る大古刹が我が家の近くに厳然と佇んで居られる。此の様に、歴史的遺産が転がっている。さすが、京都で在る。
南宗寺は筆者が度々、拝観??した半世紀前と同様、今も拝観者が少ない。唯、拝観料400円を徴収するように為っていた。.方丈前に白砂が敷かれた石庭は趣こそ失われたが昔の儘に残り、茶室実相庵は三千家の援助を得て再建され、各千家の好みの三つの茶室が再建されている。法堂も昔の儘に探幽の女婿狩野信政筆の「八方睨みの龍」が時代の経過其の儘の墨の枯れ、掠れ具合も奥ゆかしく、半世紀振りに訪れた筆者を見下ろしていた。古の自治都市堺の堀跡に面した南宗寺の外塀、茶室実相庵に続く椿の小径は「此処がそうだろうか?」と思わせるばかりにに荒れ果て乍らも、往年の雰囲気を残す。
八方睨みの 龍も石庭も 其の儘に 五十年(いほとせ)距てし 南宗寺に詣づ
古の 椿の小径は 荒れにしを 古刹の茶室も 五十年見ざれば
大坂夏の陣で家康に焼かれ更に、太平洋戦争では米軍の堺空襲によって潰滅した堺の街。南蛮貿易で栄えた堺の様子は失われた儘、,長い時間を寂しさの中に眠っている。南宗寺の在る御陵前から宿院まで歩いたが、南蛮貿易当時を偲ばせるものは何も無い。「当たり前や、何年経ってるんや」・・・。しかし、元徳元年(公元1329年)創業のかん袋(元は和泉屋、かん袋は秀吉の命名)や天文元年(1532年)創業の小嶋の芥子餅等が未だに営業を続けている。戦災を逃れた北部堺では、昔の鉄砲鍛冶に基を置いた庖丁生産が今も盛んで在るとか。芥子餅の本家小嶋の店前の道は「中浜通りと呼ばれ、裏は浜通と呼ばれていた。其の向こうは港で当時、ジャガタラ(今のジャワ島)から遙々、遣って来た南蛮船のカピテンや宣教師達で賑わった様ですよ」は芥子餅の小嶋の主人の話。昨日の様に話すのが面白かった。彼の五百年は一夜の事らしい。当時のヨーロッパで発刊されていた世界地図のジパングと呼ばれた日本には、京都と堺だけが街として載せられていたと云う。
芥子餅の 天文創業 かん袋 堺の栄華も 昔語り空し
カピタンや 南蛮神父ら 闊歩街 今は昔と 石灯台一つ
南蛮貿易当時、堺港の入り口に立っていた石灯台(勿論、レプリカ)を眺めつつ宿院から天王寺まで阪堺電車(チンチン電車)で帰宅の路に着く。趣のある、昔を偲ばせるチンチン電車。天王寺からは学生時代の通学路(大阪環状線と京阪電車)で懐かしい半世紀振りの想い出の一日旅。「半世紀の想い一日にして蘇る」で在ろうか??長い間気になり乍ら、其の儘に為っていた墓参りを無事に終えた彼岸の入りで在った。 平成29年3月17日(金、晴)
ー瓢逸白文京都はんなり歌草子ー{第三輯、桜咲く}
「SPRING HAS COME」 (春が来た)」巻三