「平家追討の旅」を研究と称して、全国の平家伝説を訪ね歩いている学友の足立君と他、マスター会員へのメール

  "「方丈記」の古書を手に入れて読みましたが、「平家物語」という?武家の天晴れ文化に対する当時の京都人つまり、公家や教養人等の雅文化の後退、それから発する「厭世隠遁文化」・・・・・・清盛の急進改革政治と其の後の源平戦乱の世・・・。都人の隠された想い、表に出す事が出来ない想いが籠められた随筆でした。
  そう言えば、私が棲む辺りは昔、沢山の隠者が庵を結んだ地だと云う事を知りました。喜撰法師や鴨長明、阿波内侍等々ですが、徒然草にも「栗栖野という処を過ぎて・・・隠者を訪う・・・」という文節が在ります。大石内蔵助の「山科閑居」もこの付近?でしょうね。彼は閑居から奈良街道を通って伏見の花街に遊びに出掛けたんでしょう??「仮名手本忠臣蔵」では祇園一力茶屋で遊んだと為っていますが、大石は伏見遊郭の茶屋で大阪の、例えば天野屋利兵衛の様な支援者、江戸や京に隠れ住む同志達と打合せをした??光秀が竹槍で殺されたのも・・・・・・・・。終いの棲まいにぴったりの地かも知れませんね”。
    隠り人の 庵の跡の 数多とふ 我が移り来し 里の辺り
    方丈記 徒然古今等 古書はいふ 世捨つる多きと 我が里の史 
 
 
足立君から返事が来なかったが、京都生まれ京都育ちの小林博士からのメール

  ところで、京都を楽しんでられますね。残念ながら、私の知らないところばかりとは言いませんが、話題の半分ぐらい?あるいはそれ以上は私の知らないところへの訪問記になってきているような気がします。足立さんとのやり取り、いまさらながら27歳まで京都に住み暮らした人間が感心して読んでいます。
  昔は京都が嫌いだったのですが、歳とともに京都が恋しくなり、最近では京都の近辺でもいいからとも思うようになって時には転居の可能性について話しあうこともあるのですが、東京派の彼女に一蹴されています。
      平成29年1月29日(日、晴)
    東より 早よ戻り来よ 京生まれ 旧友よ都の 酒舗も待つらむ
   旧正月朔日、御蓋の山焼きの頃

  今日は旧暦の正月、春節で在る。「中国の友人達に”祝春節!メール”を打たなければ、為らないなあ・・・」と思いつつ結局、誰にも打たなかった。旧暦の正月は此の項には何の、関係も無い。唯、一年の朔つまり、始まり日で在る事を言いたかっただけで在る。

  お昼を喰ってJR奈良線で奈良に行く。女房に御蓋山の山焼きを見せる為否、私自身も初めての見学である。我が家近くの六地蔵駅から快速電車で30分余り、新しい奈良駅に到着、近いねえ。新奈良駅は三階にホーム、コンコースは二階に置かれる。そう言えば風情のあった駅舎は廃止されたのだろうか・・・??旧奈良駅舎は其の儘で、駅前の広場、バス停の列ぶ様も昔の儘で在る。しかし、旧奈良駅舎の余りの小ささに驚かされる。へー、こんなに小さかったんだ。当時は、此の大きさで充分だったので在ろう。でも、寺院の塔を想わせる屋根の飾り、古都奈良の雰囲気を残す建て様、風情は未だに健在である。キオスクで販売していた駅職員さんに「好いねえ。此のコンコースは・・・。私にとって思い出が一杯ですよ。何が在っても残して下さいね」と告げると「有り難う御座います」と頭を下げられた。奈良駅に所縁のある方々にとっても、旧駅舎は「誇りだったんだ」・・・。
  三条通を猿沢の池に向って歩く。途中で「笹川文林堂」に立ち寄る。店の看板は当然、公照師の手に為る。恐らく私が毎日曜の午後、大仏殿で墨摺り手伝いをしていた頃の墨書?否、それ以前で在ろう。懐かしい。墨字を習い始めた頃、故清水公照師に連れられて端渓の硯を買った想い出がある。もう、半世紀を越える昔の話で在る。其の硯は未だ、私の手元に有って現役として活躍をしている。

「あ~!京都に棲んだんだ」巻三
(diaryessey2-4)へのリンク
  更に、酒の粕汁を伴ったお午御膳の接待まで受けた。酒の粕汁は京都や大阪の冬の料理である。丁度此の頃、新酒が出来上がって酒粕が出倉される。塩鮭のブツ切りが入った粕汁は暖かく、美味しい。お袋が好く作ってくれた。愛知県生まれの女房は粕汁を知らない。久しぶりの味で、お袋を思い出した。                            平成29年2月3日(木、晴)
「あ~!京都に移り棲んだんだ・・・」巻二
節分会の「鬼遣らい」

  足立君から教えて貰っていた法住寺の節分会に行く。節分会は京の各地の寺々や神社で行われる年越しの行事である。中国の春節前日を過年と云い、餃子や麺料理を食って春節を迎える準備をするのと同じ意味を持つ。日本では立春の前日を年越しと呼んで鬼(邪)を払って豆を食う。京の寺々や神社では「鬼遣らひ」とか「追儺」と呼んで一年の邪を祓い、祈祷して豆まき行事を行う。宮中では旧暦の大晦日に「追儺(鬼遣らい)」の行事が行われ、年を送ると共に儺つまり、邪をはらって新年を迎える行事が行われた。大祓えとも云った。この行事は中国では秦王朝の時代には行われていた記録が残っている。日本には文武天皇の頃(8世紀頃)に伝えられ、江戸時代の初めに消滅したが民間の風習として今尚残り、各寺社で大々的な行事として行われている。民間では鰯の頭と柊の枝を玄関に飾って邪の侵入を防ぎ、「福は内、鬼は外」と豆を撒く風習があった。私ら兄妹も豆を撒いた記憶が蘇る。しかし、時代と共に廃れて行く行事で在ろうか。
   節分会、昭和も遠く 為りにけり 幼な妹と 豆撒きし頃

 古寺の酒粕汁接待

  法住寺は三十三間堂の向いにあるが、普段は静かな小さな寺で在る。沢山の参拝者が既に集まって餅つきや鬼遣らい、護摩木焚き等、節分会の始まるのを待っている。物知り顔をした小母さんに色々、教えて頂いて、「女房の名と胆石治癒願い」と書いた護摩木を奉納し、御札をお願いした。御札はご祈祷をして2/10頃、郵送されるという。ご丁寧な事で在る。
ー瓢逸白文の京都はんなり歌日記ー第二編
都の辰巳に棲まいして・・・・
  親父も奈良に来る毎に、この店奥でお茶の接待をして頂いたと云う。今日は女房と二人、コーヒーを頂いた。公照師や親父の想い出話に暫し、花が咲く。「公庸さんの幼かった息子さんが今年始めて、お水取りに参籠されます。今夜皆でお祝いをするんですよ。此で公照さんの血筋否、所縁は無事に宝厳院を継げます」と。東大寺ではお水取りつまり、二月堂修二会に参籠を許されて初めて、東大寺の僧侶の一員として認められる。「公仁さんですか?」と私。「そうです」。「公仁さんのお母さんは菜穂子さんでしたね?公庸さんの奥さん」・・・。公庸師は筆者が大仏殿に通っていた頃、公照師の跡継ぎとして倉吉から宝厳院入りをした。小学校を卒業した頃で在った。筆者を兄貴のように慕って呉れた。「県美術館で公照先生の展覧会が催されていますよ。行かれたら・・」。
  笹川文林堂を辞去して興福寺南円堂前の一言観音に参拝。「そう言えば大仏回廊の公照師のアトリエでの墨摺り手伝いからの帰路、此の観音様に墨字の上達を毎日曜の夕方詣ったなあ」。女房は長い間、拝んでいるが勿論、胆石の治癒で在ろう。
  笹川文林堂の言っていた県美術館へ到着。公照先生の彩色画、墨跡、泥佛の羅漢様が、杉本建吉や平山郁夫の大先生方と列べられて展示されている。懐かしい公照先生の墨跡で在る。作品は長老や別当時代のものが多い。「俺が通っていた頃の字の方が元気があって好かった。巧く纏め上げようとする字だね」と女房に偉そうに語る。


    燃え盛る 大とんどの火 眺め居て 奈良に通ひし 日々の想ひ出づ
  飛火野に設けられた火炉の「大とんど」を拝んで、春日大社参拝を終えて若草山山麓へ。暫く待つ内に、飛火野の大とんどの貰い火が若草山山麓に設えられた参拝社に運ばれ、山焼きの神事が始まった。春日大社の神官の祝詞に続いて東大寺と興福寺の僧による読経が其れに続く。昔、東大寺と興福寺の僧兵による領地争いが、三笠山の山焼きの始まりだとか??今では奈良の年中行事に為っているが、本来は厳粛な神事だったので在る。花火に続いて若草山の枯れ草に火が撒かれる。其の雄大さと燃え盛る火の迫力・・・。山全体に炎の帯が彼方此方と大きく広がって、山を駆け上って行く様は迫力満点。奈良に都が置かれた昔から続けられる神事と言われるが、何年目の炎なので在ろうか。ふと、振り返ると奈良の街の灯が広がって見え、夜空には宵の明星が瞬いていた。
    帯為す炎 山舐め上る 御蓋山 返り見街の灯 明星瞬く

  帰路の車内に息子から「破魔矢が届きました。有り難う」と昨日、石清水八幡宮から直接、送って頂いた代参の厄除け御神矢が届いた旨のメールが届く。何か、役目を終えた想いでメールを読んでいた。              平成29年1月28日(土、晴)