しかし、四大美女に付いては此処に挙げた四人の他にも多くの美女が四大美女として挙げられる。西施と楊貴妃は既に記したので此処は此の二人以外の美人に登場を願う。
「貂蝉」は明代に羅貫中によって書かれた小説「三国演義」によって生み出され、「美女連環の計」つまり、美女を使って敵方の分裂を企む謀に荷担する三国志のある時期の主役を演じる。しかし、架空の美女と云ってもモデルは居たらしい。陳寿の著した正史「三国志」によれば、漢王朝の実権を握って王朝を弄んだ奸臣董卓の傍に侍る女{侍女とは寝所に侍る女}と通じ、発覚する事を怖れる呂布が東漢王朝最後の皇帝献帝に仕えた実在の側近王允に相談をする。奸臣董卓を除く計画を秘かに練っていた王允は、此れ幸いと呂布を唆せて董卓を殺害させるのである。
董卓は東漢王朝の末期、権威を失った朝廷を牛耳って自ら相国の地位に就き、洛陽から長安に遷都して洛陽を焼き尽くす等、暴虐の限りを尽くす。董卓の暴虐や漢王朝最後の皇帝・献帝の困惑を見かねて司徒・王允が、董卓と養子縁組みをして董卓に忠節を尽くす呂布の二人の仲を十六歳の養女・貂蝉の美貌を使って、仲違いさせる計画を立てる。二人の間に貂蝉を置いて双方を誘惑させ{美人連環の計}、絶世の美女で在る彼女を奪い合わせて二人の仲を裂き{離間の計}、呂布に董卓を殺害させるのである。これが小説「三国演義」の語る「美女連環の計」の顛末である。司徒王允は後に曹操に処刑される。
呂布と通じて董卓殺害の原因と為った侍女が貂蝉のモデルである。小説の話題として「美女連環の計」は面白いし、男性読者の好奇心を惹き付けるにはうって付けの題材と為って美女・貂蝉は「三国演義」の第一幕を彩るので在る。
五千年否、其れを遙かに超えるメソポタミアの歴史に匹敵するという七千年以前に栄えた古代都市国家「城頭山遺跡」が、長江の南部に広がる江西省の江南平原に発見されて長江文明と黄河文明という全く、性質の異なる二つの悠久の流れを持つ中国の長い、長い歴史が次第に明らかにされつつある。其の長い長い歴史のひとこまを彩った美女達は数え切れない数を現れては、消えていった。
史書や説話、民間伝説等々に語られ、男等の好奇心と憬れ、羨ましさ、妬みや蔑み或いは、ストーカー紛いのほくそ笑みという視線を浴びつつ、彼女等は長い過去を語り続けられ、此からも語り続けられる。
斯くして、多くの美女の活躍が長い歴史上に浮かんでは消え、此からも繰り返されるの在る。或る女は国を滅ぼし、皇帝や帝王を腑抜けにし、男と男を互いに啀み合わせ、国の安定の為に異郷に旅立って人々の涙を誘い、・・・・・。多くの美女が或る時は斬殺され、或る時は沈められ、酷たらしく虐め殺され、沙漠や荒れ地に消え去って彼の地に生涯を全うした者、・・・・・。中国だけに限らず、「歴史は美女によって創られる」と叫んでも過言では無い。
「屁放き爺さん美女捜しのお噺」
歴史を或いは、人々の伝える物語を彩る多くの美女達は、長い中国の歴史のホンのひとこまに過ぎない。此から書こうとする美女達も中国の悠久の歴史上に浮かぶ一粒の泡で在るに違いない。斯くなる歴史の流れの一アブクの如き美女達を描こうと思うのは、筆者の美女に対する憬れ、心の裏底に秘めたエロ爺的欲望の叫びを満足させるだけで在るかも知れない。
先ずは中国古代四大美女に組み入れられる美女達である。時代順に西施、王昭君、貂蝉、楊貴妃の四人を指す。
寝惚け旅、巻四
”歴史は美女によって創られる”第一篇
日本で広く知られる吉川英治の小説「三国志」、それを元にした横山光輝の漫画「三国志」では連環の計を遂げた貂蝉が自害して果てるという翻案がなされている。その他の「三国演義」を題材にした創作作品では悪女・忠女・戦う女傑など様々な創作を交えて貂蝉が描かれる。
貂蝉に纏わる面白い民間伝承がある。"貂蝉は酷く不美人で在ったが王允が三国時代の名医・華佗{漢末の名医、魔沸散という麻酔薬を酒と共に飲ませて外科手術を行った。曹操の侍医と為り、獄中に死す。小説「三国演義」では毒矢を受けた関羽に手術を施す}にそのことを打ち明けた処、華佗は首を西施のものと取替える。それでも度胸がなく行動に移せないで居る彼女を嘆いた処、今度は肝臓を荊軻のものと取り替えた”という話で在る。元代の雑劇「錦雲堂美女連環計」では姓を任、名を紅昌、字を貂蝉と設定して"貂蝉を巡って曹操と関羽が争うが曹操が降りて関羽に譲る。或いは関羽が心の動揺を鎮める為に貂蝉を斬ってしまう”等々様々な作品に語られ、作品毎に異同が見られる。
中国四大美女考
一、貂蝉 「美女連環の計」
ー小説が創った美女ー