「屁放き爺さん美女捜しのお噺」
彼女の身の軽さと細い身を操って舞う様は掌に舞うと称えられた。後宮では成帝の寵愛を一身に受け、更に妹の趙合徳を昭儀{皇帝の特別な側室}として入宮させる。成帝は公元前一八年十二月に許皇后を廃して公元前一六年に飛燕を皇后に即位させる。飛燕は更に、皇帝の寵愛を確固としたものにする為、皇帝の子を身籠もった側室とその子を殺し、其れが公に為らない様に実行した宮女迄をも殺したという。しかし、彼女と妹は妊娠しない。現代科学では、飛燕が痩せるために飲んでいた「減肥茶」というお茶が、不妊を引き起こしていたと考えられている。
身籠もらない飛燕は皇帝との相性が悪いので"子が出来ない”と考え、男子禁制の後宮に運び混まれる荷物に紛れ込ませて男を引き入れ、多くの男と関係を持ったが妊娠はしなかった。前代未聞の皇后の男漁りという不祥事にも成帝は何も手を下さず、飛燕に罰は下さなかった。此の頃は皇帝の寵愛は飛燕から妹の方に移っており、妹は姉に咎めがない様に口添えをしたといわれる。
「飛燕外伝」という文章は
、 成帝と趙飛燕の関係を描写した一種の小説であり、史実を忠実に反映したものとは言えないが、後世に成帝と飛燕の行状を伝える役目を果たしている。その述べる処によれば、飛燕の妹・趙合徳は成帝の寵愛を失わぬよう特殊な房中術を以て成帝に仕え、房事の最中に成帝は急死する。この死に不審を抱いた孝元皇太后の調査の結果、趙合徳が成帝に精力剤を服用させ過ぎた事による中毒死と判明し、その責任を取るため趙合徳は自殺に追い込まれた。自殺直前に趙合徳は、"我が身は皇帝に仕え、過分な寵愛を受け、もはや思い残すことは無い”と云い更に、"私は帝王を股間に弄した。女の本懐は此に優るものは無い”と述べて毒を仰いだとされる。
成帝が崩御すると事態が一変する。成帝が急死し、その死因に疑問の声が上がって妹の趙合徳が自殺に追い込まれ、危機を迎えた趙飛燕であるが、自らの子が無かった為、哀帝の即位を支持、哀帝が即位すると皇太后としての地位が与えられた。
公元前元年に哀帝が崩御して平帝が即位する。支持基盤を失った趙飛燕は、王莽によって宗室を乱したと断罪され、皇太后から孝成皇后へ降格更に、庶人に落とされて間も無く自殺をするので在る。
「環肥燕痩」とは”豊満な楊貴妃と細身の張飛燕”で、豊満な女性が持て囃された唐代と、細身の美女が好まれた漢代を表す美人を表現した四文字熟語で在る。此の頁は“掌に舞う”と其の細身の姿態で華麗に舞う姿の美しさを讃えられた趙飛燕を述べたい。
「趙飛燕」{? ~公元前元年}は、王昭君を匈奴に下賜した元帝を嗣いだ成帝{公元前五一年~前七年、在位前三三年~前七年、諱は劉驁の皇后で在る。彼女は元名を宜主と称し、その出生は卑賤で幼少時に長安に辿り着いて飛燕と号して歌舞の研鑽を積み、その美貌と舞う姿が成帝の目に止まって後宮に迎えられた宮妓出身の皇后で在る。
寝惚け旅、巻三
”美女は世に連れ、世は美女に連れ”
「環肥燕痩」巻一
"夢は夜、開く”という歌が昔、流行ったが、"美女は夜、活躍する”という句が想い浮かんだ。美女は確かに夜に働く事が多い。「夜の蝶」は酒舗で、「芸妓」や「舞子」はお座敷で、古の美女達は宮廷で男共を喜ばせて弄び、誑(たぶら)かした。巫女は神の館で、早乙女は田植えが終わった畦路で・・・・・。"美女は夜、開く”とすると少し、否少し処で無い卑猥に陥る。渡辺淳一の「失楽園」の世界に迷い込みそうである。しかし、筆者は何時も美女に誑かされたいと願うが、仲々其の機会に恵まれない。まあ、歳のせいにしておこう。・・・。
ー妾は帝王を股間に弄せし女ー
注:「飛燕外伝」は、漢代の伶玄の撰と伝わるが、六朝時代に成立した文学小説という説が一般的である。其の内容は、漢王朝の皇帝成帝の皇后である趙飛燕が、彼女の妹である昭儀趙合徳と皇帝の寵愛を競い合う事が主要な内容である。「その閨幃媟褻の状は目を蔽はしめるものがある」(金築新蔵評)性愛文学として、その内容はすこぶるおもしろく、多くの詩文の典故とされた。
日本文学への影響も小さくなく、平安時代の女流文学者に愛読され、種々の物語の粉本ともなった。「源氏物語」の作中人物が光源氏の寵愛を争う様は、本書の趣向に習ったと云われる。