楊貴妃は最初、玄宗の第十八子寿王李瑁の妃となる。五年後、玄宗に見初められ、一時的に太真という女冠{道教の女導師}に為るが、実質は内縁関係に在って玄宗との密会が続いたと言われる。その後、宮中の太真宮に移り住み、玄宗の後宮に入って寵愛され、皇后と同じ扱いを受け、其の後貴妃に冊立される。
興慶宮の沈香亭で玄宗皇帝が李白に作詩させ、名歌手李亀年に歌わせた「清平調詞」に彼女を漢代の美女趙飛燕に喩える部分があった。皇帝の寵愛を受けていた李白に悪意を持つ楊貴妃付きの宦官高力士が、此の趙飛燕に喩えた事を彼女に指摘し、玄宗に働き掛けて遂には李白を追放したと云われる。しかし、様々の書物を読む限り、楊貴妃は他の帝の寵愛を受けた美女とは違って誰にでも優しかった様で在る。高力士の讒言で李白の昇進を妨げたと云われるが、筆者にはそうは思えない。
舞や音楽、詩を愛した玄宗皇帝の彼女に対する寵愛は、彼女の並々ならぬ芸事に負う事が大きかった。白居易の詩「新楽府」の一首「胡旋女」では、楊貴妃は胡旋舞という西域から渡来した舞を舞ったという。琵琶が得意で、玄宗皇帝が興慶宮の沈香亭で自作の詩を李亀年という宮廷楽士に演奏させた時、彼女は琵琶を奏でたと云う。又、磬{打楽器の一種}の名手でもあり、梨園の楽人ですら敵う者は無かったと云われるし、紫玉の笛は、嫦娥から貰ったという伝説もある。「涼州」という歌は、彼女の作曲で彼女の死後、玄宗皇帝によって広められたと伝わる。
此の頁に続けて彼女が詠んだ詩と、李白が彼女の美を讃えた「清平調詞」を紹介したい。
「屁放き爺さん美女捜しのお噺」
寝惚け旅、巻三-二
大詩人の李白が其の豊満な皇帝の思い人の美貌を、掌に舞うと其の痩身を詠われた漢代の美女趙飛燕に競べ、牡丹の花に譬えて詩に讃えた唐代の美女楊貴妃。
傾国の美女として、四大美女の一人楊貴妃を紹介したい。
「環肥燕痩」巻二
筆者按「楊貴妃の最期に付いて」:彼女は、安史の乱や国家の乱れから逃れる皇帝の巴蜀行幸に同行して兵士等の希望で死を賜ったと伝えられて読者の涙を誘うが、筆者には皇帝健在の内の死は一方では、彼女にとって幸いで在ったと思う。殆どの寵姫が其の保護者、寵愛を受けた帝の死後、権力を回復した皇后などによって惨めな最期つまり、徹底した虐めや虐待から悲惨な末路を迎える。「環肥燕痩」と彼女と比較された漢代の美女・張飛燕は、権力を握った王莽によって宗室を乱したと断罪され、太后位から庶民に落とされて自殺を強いられる。
楊貴妃は此の様な悲惨な末路を経る事無く、皇帝の涙を誘いながら、皇帝自らの命令で此の世を去ったので在る。歴代の寵姫の内で、彼女は幸せな最期を迎えたと言うべきであろう。
一目見た息子の妃に恋して国を傾ける
「中国の唐の時代、今から千二三百年前、中国史上でも稀な繁栄を国民に謳歌させていた玄宗皇帝は、一目見た息子の妃の美しさに国を滅ぼす原因を作ってしまった。有名な楊貴妃である。現代でも女で身を持ち崩す男が多い。古代では君主が美女にうつつを抜かすと、彼一人が身を崩すだけにおさまらず、国家そのものが危機に陥る事が殆どで在った。"私は之(これ)で会社を辞めました”。女、女、・・・特に美女にはご用心!ご用心!」。