しかし、多くの漢訳教典の多くは玄奘三蔵に先立つ事、約二百五十年前の五胡十六国時代の亀茲国に生まれた一人の王子、鳩摩羅什によって梵語から漢訳されたもので在る。当然、「般若心経」も基を為す「般若心経」が在った。鳩摩羅什によって詠まれた「般若明呪経」で在る。玄奘本「般若心経」は、鳩摩羅什の詠んだ「般若明呪経」に上書き或いは、書き換えて当時の仏教界に発表したもので在る。玄奘本と鳩摩羅什本を読み比べると、鳩摩羅什本の方が解り易く、詩的な感を与える。玄奘本は理屈っぽく感じる。
   「般若明呪経」中に鳩摩羅什が詠み込んだ「非色是空・・・・色即是空・・・」つまり、"「色」は、「空」に異ならず。「色」は即ち「空」其のもので在る”。"総ての事象は移り変わる”という大乗仏教の真髄を為す一句、十六字が表す「空」の心が無ければ、「大般若経」のみ為らず、多くの仏典解釈は有り得なかったと迄、云われる。仏教心髄の一語「空」という文字に大乗仏教は救われ、言い尽くされ、すべての教典の解釈が成り立つと言われる。
   「色」とは、此の世のあらゆる現象や現れで、「空」とは「虚ろで中味は何も無い」或いは、「無の心」を表す。鳩摩羅什は、此の「空」の精神を読み解き、「空」を発見し、「空」を活用する事によって多くの大乗仏教の梵語で著された経典を漢語に翻訳を成し遂げた。そして最後に

 屁放き爺さん「色即是空」巻一

  「般若心経」という短いお経が在る。東大寺の元別当、清水公照師の仰有るには、゛全ての教宗に対する事が出来るお経だ”という。実際に、師は従軍された戦時下の中国で戦死者の法要で導師を務めさせられた時に、"「般若心経」を三度、繰り返した。俺より法要に馴れている坊主が居たのに・・・。東大寺という名が効いたかな”と失笑されていた。
   「色即是空」という名句で知られる此の教典題名は「摩訶般若波羅蜜多心経」という。「般若心経」は略称である。「般若心経」は、唐代の入竺僧玄奘三蔵法師の作と云われる。「西遊記」では、孫悟空や猪八戒達と多くの魔物に虐められながら天竺に旅をした玄奘三蔵{六〇二年~六六四年、俗名:陳褘」}は、唐の太宗の貞観年間に国禁を犯して出国し、天山北路を経て天竺に渡り、ナーランダ大学に学んで十六年後、天山南路のオアシス国家を辿って沢山のサンスクリット教典を長安に持ち帰って漢訳をした。其の教典は「般若経」六百巻を含む六百五十七部と伝えられ、帰国した後に彼は、高宗の皇后則天武后{後の中国唯一の女帝武則天}によって無断出国の罪を許され、天竺や西域から持ち帰った教典を納経する納経堂、大雁塔を寄進される。
   彼の天竺紀行文「大唐西域記」は、シルクロード沿線の世界を当時の中国の人々の目を西域に開かせた。玄奘三蔵法師は、現代仏教界への多大の貢献が讃えられ、我が国の仏教は彼の入竺無くしては有り得い。唐代の中国仏教界は玄奘のもたらした教典を拠り所とし、我が国の遣唐僧の多くは当然、玄奘の経文を学んで其の教義を写経して持ち帰った。我が国の各宗派の拠り所と為っている多くの教典は玄奘の漢訳本で在ると云われる


屁放く爺さん「色即是空」巻二
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キジル石窟寺院前の鳩摩羅什像
「羯諦々々波羅羯諦波羅僧羯諦菩提僧莎訶」{行こう、行こう彼の岸へ、悟りの世界へ皆行こう}と締め括る。

   五胡十六国時代に多くの教典を漢訳をした鳩摩羅什という名僧が居た事は、玄奘の高名によって影が薄くなって久しい。しかし最近、玄奘の名漢訳と伝えられる多くの教典は、鳩摩羅什の漢訳教典に上書きして済ましたかの如き翻訳で在る事が知られ始めた。
   「般若明呪経」には玄奘本に無い句が見付けられる。例を挙げると、「色空故無悩無壊相、受空故無受相、想空故無知相、行空故無作相、識空故無覚相{色は空故に悩みは無く壊われる様相も無い。感受は空故に感受は無く、想念は空故に相を知る事は無い。行動は空故に行う相も無く、知識は空故に覚える事も無し}」の文言は「空」の説明であり、「是空相非過去、非未来、非現在{是の空為る相は過去にも非ず、未来にも非ず、勿論現在にも非ず}」は、゛「空」は時の移ろいに囚われない真理で過去、未来、現在の三世に渡る真理で在るのだ”と述べるのである。また、サンスクリット原典には無い句「度一切苦厄」{一切
苦しみと厄禍を度す}は玄奘本にも羅什本にも記載されるが、羅什が書き加えた追加句である。玄奘本と羅什本両者の「般若心経」を読み比べてみて判る事は、玄奘三蔵は求道者の立場に立って"勝手に付いて来い”と威張っている様である。一方、鳩摩羅什は詩人、文学者つまり、芸術家の立場から解り易く説いている。原典に無い句を追加記入して理解困難な「空」という絶対真理を説明し、其れでいて玄奘本に比べて詩的な雰囲気を漂わせる。
入竺玄奘「砂漠の旅」

「般若明呪経」と「般若心経」