「法華経」という経文が在る。日本では日蓮宗の僧侶や信徒が団扇太鼓で拍子を取りながら、"南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)・・・"と大声で称えながら街を巡回する朝夕の勤行や拝礼が知られるが、「南無妙法蓮華経」の語句の中には「獅子吼」{獅子が吼える}という意味の文字が、"封印されている”と云われる。「一念三千世界」つまり、”一度念誦すれば三千世界を覆い尽くす”と云われ、”大王の元に全ての世界を集結させる”という国家建設にもってこいの思想が読み取れるのである。
法華経を教義とする創価学会に擁立される公明党が権力に擦り寄るのは法華経の教えに依拠しているからかも知れない。
「法華義疏」は行信が発見して法隆寺で伝えられ、公元1878年(明治11年)皇室に献上されて御物として保管されている。
「屁放き爺さん昔~しのお噺」
「三経義疏」の著作は聖徳太子の仏典研究と国家創建の方針発表で在ると筆者は思う。
三つの経典とは、国家創建の基となる「法華経」、国家建国の柱となる小治田の媛王(推古天皇)を讃える「勝鬘経」、在家の仏教者維摩居士に自らを譬えて其の教えを基にした中央集権国家を創建しようと云う意慾を述べる「維摩経」の三つの経典で、其れ等の注釈書が「三経義疏」であるという説が有力である。 政治の一線から離れ、斑鳩に引退した聖徳太子の仏教研究に没頭して著された研究成果で在る”と多くの学者先生方が述べて居られる。
しかし筆者は、仏教文化、大陸の先進文化を国内に広めて太子として、摂政として推古大王を中心とした中央集権国家を建国して、偉大な隋王朝に匹敵し得る体制を築かんと意気込みと、国を担った聖徳太子の政治宣言で在ると思わうのである。
「三経義疏」を考察してみよう。
巻三の4
聖徳太子は”「勝鬘経」は、’人間は誰も仏になる事が出来る’と述べる”と義疏の中で説明する。”幸福なる花飾り”という「勝鬘」とは、人々が七宝で、肉体を美しく飾る様を云い、勝鬘夫人は正に、その名にふさわしい美しい王妃で在った。彼女は、釈尊に出会って修行を積み、真理を身に帯びる法身の姿を現す法身者と為る。それ故、「勝鬘」と呼ぶのである”と「勝鬘義疏」に述べる。夫人の為に釈迦が説法したのが「勝鬘経」とされ、勝鬘夫人は釈迦如来の分身とされ、法雲地という求道者の最高の地位を得るのである。
「日本書紀」には、”推古14年、橘寺において聖徳太子が「勝鬘経」の講義を行い、講義を聞いた推古天皇が感動した”と記される。「日本書紀」は更に、「姿色端麗、進止軌制」(御姿は端麗で、挙措動作は乱れなく調う)と推古天皇のお姿を記す。
太子は伯母の姿の美しさ、神々しさは、建設しようとする国家に君臨する女王として相応しい”と述べたかったのではないだろうか。正に、新国家を創造せんとする日本最初の女帝に講読するにはもってこいの経典で在った。
「勝鬘経義疏」は、6世紀の後半に中国で成立したことが藤枝晃氏の研究によって認められて居り、公元600年の第一回遣隋使によって持ち帰えられた敦煌本「勝鬘経義疏」で在る事は確実で在ろうとされる。太子の著作ではないにしても聖徳太子が遣隋使によってもたらされた「勝鬘経義疏」を種本として、推古天皇に講義したことは大いに想像が付くので在る。
また、「維摩経」は市井の商人、維摩詰が釈迦の多くの弟子や菩薩達を論破して「空」という真理に導く物語で、"煩悩の中にこそ、悟りが在る”と書き換えられる。つまり、"煩悩是道場”と鳩摩羅什によって南北朝時代、五世紀の初めに大胆に意訳された教典である。"悟りに至れ”という命令形から、"煩悩の中に悟りが潜む”と説得調に書き換えられて解り易く人々に説く。
”仏教講読と聖徳太子の夢”第2篇
ー「三経義疏」、"隋から得た新知識!”ー
多くの学者先生は”聖徳太子は夢破れ、政治の世界から引退して斑鳩に離宮を建て、其処で仏教三昧に耽って晩年を過ごした”,と安田靫彦筆「夢殿」に描かれた太子を連想するのである。
筆者は此の説に異を唱えたい。何故なら、太子は大隋帝国に比す中央集権国家建設の夢は薨去される迄、捨てなかったと思うからである。第一回遣隋使が帰還した翌年斑鳩宮を建て、翌々年、冠位十二階を制定し、其の翌年604年に十七条の憲法を制定する。更に国毎に屯所を置きまた、二回目の遣隋使を派遣し、煬帝の使者裵世清を迎えるのである。裵世清の来日は太子や蘇我馬子に採って華々しい事で在った。太国隋の皇帝が使者を派遣したのである。”やっと煬帝に認められた”と太子は思ったであろう。其の後、毎年のように遣隋使を派遣し、其の間に遣新羅使、遣百済使を各国に派遣して大陸の先進文化の移入を計っている。
筆者は、太子の斑鳩宮建設は、”仏教三昧に耽る”為ではなく大都城、明日香に代わる都、大きく広がる大都城を建設しようとしたのではないか”と想像する。斑鳩は広々と開けた地に多くの寺の甍が今も聳える。
622年に太子は死を迎えるが其の二年前、620年には馬子と共に、「大王記」、「国記」、「臣連伴造国造百八十并公民等本記」という三巻の歴史書と戸籍書を編纂する。歴史書や戸籍国勢の編纂事業は対外的に倭国は(当時は未だ、「日本」国号や「天皇位」称号は使用していなかった)は”独立した国家である”事の宣言で在った。此の様に太子の精力的な活躍は死の間際まで続けられるのである。
太子の夢が挫折するのは、太子の死後に起こされた「乙巳の変」つまり、「大化の改新」という蘇我政権の改革路線に対する氏姓政治復活を狙った保守派豪族による反革命で在った。
此は次頁に述べたい。