放屁老師のエッセー

「一酔十色咄」

「恋をしましょう。恋をして」ー完ー

老師のエッセー巻二「中国触れ合い街歩き」に続く。
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  古の日本では「筑波(つくば)山の歌垣」が有名で当時は筑波山は生を謳歌する山として歓迎され、火と雪の山つまり、生の無い死の山として富士山は嫌われた。中国では今でも、七夕を「情人節(チンレンジエ)」{恋人祭}と呼んで恋愛の日とされるが、古の日本でも七夕祭は恋愛を祝い、恋の成就を星に祈る日でも在った。万葉集には七夕の恋歌が多く詠まれ、宮廷に仕える官人や官女に限らず、庶民も此の日は大いに戯(たわ)むれた様である。平城京の朱雀大路{平城京の中心を縦に貫く大通りで幅は百米近く在った}では大々的な歌垣が催されたという。日本では新暦(太陽暦)の7月7日に「七夕が祝われ、笹飾りが玄関に立てられるが、中国や古の日本では旧暦(太陰暦)の7月7日、8月のお盆過ぎに祝われた。夏を終えてホッとして収穫の秋を迎える行事でも在ったのである。
  古の日本では通い婚が行われていて女は和歌を贈って男を誘い、通ってくる男を待ち、男も返歌を贈っては女を訪ね歩いた。称徳(しょうとく)女帝{孝謙(こうけん)重祚}は恋故に弓削道鏡(ゆげのどうきょう)に天皇位を譲ろうとし、彼女の祖母藤原宮子{聖武天皇の母}は遣唐僧玄昉(げんぼう)への恋によって長く患っていた鬱病を完癒した。「源氏物語」に描かれる恋物語は今も、全世界の女性の恋心をまさぐって已まない。
  近世に入っても人々は恋やセックスを謳歌した。異性の前に裸身を曝す事は恥ずかしい事では無く、明治時代に入る迄は銭湯や温泉の浴室は混浴であったし、沢山の春画や美人画が画師によって描かれ、彫り師によって刷られて浮世絵を商う店先や、貸本屋に役者絵と共に列べられて老若男女が買い求めた。大名や公家の姫君の輿入れ{嫁入り}には春画が持たされた。朱子学によって風紀が厳しく縛られた武家社会や大店の深窓のお嬢様方には貞節や処女性が尊ばれたが、町方では「水揚(みずあげ)爺」の風習つまり、娘が年頃になると性経験豊かな初老の男性に娘を「女」にして貰う習慣が在って初潮と共に、娘の処女喪失が「赤飯、鯛のお頭付き」で祝われたと云う。
  諸事規制が厳しかった大奥でも身分の高い御老女様方{大奥を取り締まり、将軍に女性を世話をする役割}や中老方{老女やお目付の補佐役}、奥女中或いは、前将軍の御台所様迄が宿下がり{休暇}と言っては役者を買い遊び{絵島生島事件や月光院事件等々}、"寺院に参籠する”と称しては宿坊で若い僧侶達を弄んで一夜を過ごしたという。
  大野治長(おおのはるなが)は独り寝の淀君を慰め、徳川家康の正妻、築山(つきやま)殿は岡崎城の閨(ねや)に唐人医師減敬(げんけい)を毎夜、招き入れて若き寂夜{独り寝}を慰したという。役者買いや修行僧弄遊(ろうゆう)、若衆相手の色恋沙汰は大奥に限らず、大店の奥方や未亡人、粋な姐さん方も大いに楽しんだ様である。勿論、大店の旦那衆や若旦那は芸者を身請けしたり、妾を囲ったり、郭遊びを楽しんだ。お坊さんまでが通い妻やお庫裡さん{坊さんの身の回りや夜を世話する女性}を抱えていた。「お庫裡さん」という呼称は、今でも坊さんの妻君を指す言葉として残って居る。旦那衆や坊さんだけに限らず、八っつあんや熊さん達の庶民も怖い女房の目を盗んでは茶屋通い、浮世風呂等で大いに羽目を外した。品川宿の「土蔵相模(どぞうさがみ)」は勤王の志士の遊び場で在ったし、「伊勢詣で」を終えた人々は「古市(ふるいち)」の遊郭で「精進落し」のドンチャン騒ぎを楽しんだ。「古市」は遊楼(ゆうろう)七十軒、遊女千人、浄瑠璃小屋も三、四軒抱えると云う盛況ぶりで江戸の吉原や京の島原と並ぶ三大遊郭の一つとして賑わった。此の様に江戸時代は粋な遊びが流行した、恋やセックス其れ以上に日々の生活を楽しむ大らかな世界でも在った。
  男女間の恋愛に限らず、男色恋愛所謂、ホモと呼ばれる「恋」と呼ぶには躊躇される恋??も結構、古くから高貴な方々や大寺院ではあったらしい。幕末、薩摩藩が京の都や江戸で羽振りを効かす様に為って男色恋愛が表に出て来た様で在る。"男らしさを鼓舞し、女を好きに為る等は女々しい”とされた薩摩の風潮であった。

  明治に入って日本人の習慣を欧米風に変え様とする政府が混浴禁止令を始め、"風俗宜しからず”と性に対するキリスト教的タブーに則る様々な規制を国民に科し、徹底した西欧化教育を施した事によって遂には、恋愛に対する大らかさが日本人から消える。斯くして、諸事お上が取り仕切らんとする官僚的傲慢が中国や朝鮮半島の女性を侮蔑し、取り返す事が出来ない「売春強要」という国家犯罪を犯し、国家の恥罰を晒け出す事に為ったのである。
  昭和35年(1960年)に廃止される迄、男の欲望のはけ口としての役割を果たした売春宿、赤線は恋愛と呼ぶには余りに女性に哀しい義務を課す処であった。借金の代替わりや農家の口減らしの為に女性が春を売らされる処で在った。

  何時の世に在っても、恋愛は互いに相手を思い遣り、相手を求め合う明るいもので在って欲しい。其処には権力の介在も無い、生活や社会秩序等々の制約を許さない感情の昂揚、心の喜びに撤して欲しいのである。
  色鬼(すけべ)心が頭を擡(もた)げて・・下仁田(しもにた)否々、「下ネタ咄(ばなし)」が過ぎた様な・・・!

「呉姫」

ーちょっと微笑む夜咄ー

恋をしましょう!恋をして・・・

  日本人は昔から「歌舞飲酒」つまり、宴が好きな民族らしい。三世紀の我が国を紹介する歴史書「魏書倭人条」に、"倭人の風俗は、事を挙げては互いに行き来し、宴席や起ち居振る舞いでは父子や男女の区別は無く、酒を好む云々”と宴会好きの風習が記載される。「古事記」にも天の岩戸に隠れた天照大女神を誘い出すために宴会を開き、大騒ぎしたと書かれる。此の時、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)は素っ裸に為って面白可笑しくストリップ踊りを舞ったとされる。「魏書倭人条」は更に、亡くなった人を弔う場合にも「歌舞飲食」が行われたと記される。
  此の風習は「お通夜」として現代に伝わる。お通夜を指す言葉として「夜伽(よとぎ)」という呼び名があるが夜伽とは本来、男女の夜の慰め相を云い、高貴な人の寝所やお側に仕えて夜のお相手をする事を「伽をする」と云った。「お通夜」とは、"夜っぴて飲酒や乱交??乱痴気騒ぎを行って”死者を慰め、死者の祟(たた)りを抑え、遺された者の悲しみを慰める事を指す風習であろう。
  又、「魏書倭人条」には一夫多妻で在るが、"互いに嫉妬は無く、家庭中は平穏で在る”とも書かれる。日本人は本来、性や恋に対しては大らかで在った。「古事記」に語られるエロ話は寡婦で在った元明(げんみょう)女帝を微笑ませ、柿本人麿や額田王が恋の歌{相聞歌}を詠み、「歌垣」が各地で催された。歌垣とは男女が集まって求愛歌を歌い合って"恋人を募る集い”で今で云えば「コンパ」が当たる?雲南省の少数民族には今も、此の風習が残っていて畑作業をしながら好い声を聞かせ合う。